2006年10月10日 (火)

考えすぎ

書きたいことはたくさんあったのですが、疲れすぎて更新する元気がありませんでした。

今日はこの言葉だけ。

「考えすぎて失敗することもある。成り行きに任せて成功することもある。」

周辺のことが見えすぎ、気を配りすぎてストレスが溜まってしまう自分が哀しくなる言葉だ。そして常に周囲のことを最優先してしまい、自分の身心をぼろぼろにしてしまう自分の性格が悲しい。

2006年9月30日 (土)

「1-2-7の法則」

人間は基本的に身勝手な生き物である。自分さえよければ「相手の立場」は考えないものだと痛感している。

社会とは「1割の使える人間と2割のどうでもいい人間と7割の余分な人間」から成り立っていると聞いたことがある。「1-2-7の法則」という名前がついている。

部屋を思い切り汚くした幼稚園で同様の実験結果がある。部屋を片付けるのは1割。無関心が2割、汚すのが7割だったそうだ。

しかし、幼稚園生の実験には続きがある。部屋を片付けていた1割の子供を外に出し、残りの9割の幼児だけでどうなるか?

結果は今までは片付けていなかった幼児が片付け始め、結局、「1-2-7の法則」になったそうだ。何度繰り返しても同じ結果であったらしい。

そうやって使える人間だけを選抜する社会も息苦しいのかもしれないが、私の会社のように使えない余分な人間がさすがに90%を超えている状態(「0.1-0.7ー9.2」くらいだろうか?)だととても支えきれない。

幼児よりも悪化しているケースが私の勤める会社だ。同じような社会はどこにでも転がっているだろう。。。人間はとことん進歩しない生き物だ。

もともと配慮や気配りでストレスを溜める方であったが、会社や人間が極限まで嫌いになってきた。

2006年9月13日 (水)

心底疲れました

またまた続きであるが、書く気力も体力もなくなってきた。

不眠、背中の痛み、頭痛、食欲不振といった症状がひどくなってきている。

今日はこれ以上書く気力がない。。。

2006年9月12日 (火)

問題意識

昨日の話の続きです。私の会社はほんとに無駄な手続きが多く、それを当たり前だと思って「問題意識」を持っていない人間が多すぎる。

その仕事は必要なのか?そのやり方は正しいのか?もっと効率的な方法はないのか?論理に矛盾はないのか?それがなによりも社員のためになるのか?そして会社のためになるのか?

そういうことを考えない人間達の中で、自分(及び少数の共通認識を持った仲間たち)が果たしてどんなことが出来るのだろう?

またそういう問題意識のない人間達ほど、妬みや嫉みという心を持ち、問題意識を持っている人間に改善提案などを出され、自分の領域に踏み込んでくる人間をもっとも嫌う。さらに姑息ないやがらせのようなことまでされてしまい、敵と解釈されてしまうことが多い。

どうしてみんな問題意識を持たないのだろう?自分の仕事を効率的にして、楽になりたいと思わないのだろう?

「人生観の違い」ということで簡単に片付けられるが、やっぱりそんなに簡単に納得できない。ただ、この矛盾は自分の身心に多大なダメージを与える。

今までブログの更新ができないほど忙しく、身体もまたまた壊れてきた。疲れもピークに達している。

2006年9月11日 (月)

仕事って?

久しぶりの更新になりました。この間、仕事の上でもその他のことでもいろんなことがありました。もし定期的に読んでくださっている方がいらっしゃいましたらこの場を借りてお詫びをさせていただきます。

もともと無理を承知で道理や法で権力に抵抗することが可能かということをきっかけとして書き始めたこのブログ。更新できなかった期間は、自分の会社でそれを試していました。

通常のほとんどのサラリーマンが自分の好きな仕事をしているとは思えない。ただ成長する会社と腐敗していく会社の区別はついてきたように思う。

一言で言うと、役員が部屋に閉じこもり、下から書類が上がってくるのを二重三重にも無駄な仕組みを作り出し、それを担当する職員がそれに奔走されていれば、前向きな仕事なんてできっこない。今の部署でも案件によっては「社長レク」、「副社長レク」、「役員会」と同じ案件で3つも手続きがある。それらを日程にあわせてスケジュール管理をしているようでは本来の仕事の時間が足りないのは当たり前である。

成長する会社ほど、取締役、部長、課長などの関係がフランクであり、社長が各部署を回って問題点の御用聞きをする会社もあると聞く。

日産のゴーン社長も必ず現場に出向いて作業者からも改善や問題点などの話を聞き、そこからのヒントで経営戦略を立てていく。(最近売れてないようですが。。。)

経営陣が「自分が知らないから責任はない。」とか、「呆れた話だが言った事すら忘れてしまう。」とか、「レク書類を放置する。」とか無駄で内部向けの仕事が多く、上が責任をとらないなどの企業は必ず「人」という会社にとって一番大切な財産すら失うことになる。有能な人材ほどそれに気がつき、会社を見捨てていくことになるのだと思う。

サラリーマンは時間や不満を我慢して給料をもらっている奴隷制度のようなものなんだろうな、と思う。

2006年8月16日 (水)

タイムマシーン

私は理科系であるから、タイムマシーンの原理は理解できる。空間はカーテンのように歪んでおり、その歪んだ空間を一直線に突っ切ればいいのである。簡単に言うが、誰もできていない。ワームホールからホワイトホールへ突き抜ければいいのだが、見つからない。

物理的な話では面白くないので、よくある質問だが「タイムマシーンがあったらどこの過去に戻る?」という質問がある。皆さんはなんと答えるだろうか?

私は。。。過去の後悔がありすぎて決められない。所詮そんなもんだと思う。過去を美化するのはそれが過去だからであり、過去に戻ってもきっと同じ過ちを繰り返すような気がする。

でも自分の過去ではないが行って見たい時代がいくつかある。今まで書いてきた尊敬する方々をこの目で見て見たい。

2006年8月15日 (火)

「角が立つ」という言葉があるが、まさに私にうってつけの言葉である。理想主義と現実、ゆるぎない本質と感情、これらはお互いにぶつかり合う。どこで折り合いをつけるかが大切である。私は折り合いをつけているつもりではあるが、一度感情的にこじれると相手の憎しみはどうしようもない。相手は自分ではないのだから。。。

諦めよう、自分の進むべき道を進むだけだ。

そういえば夏目漱石の「我輩は猫である。」にも「人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だ。」という表現がある。でも私の角は生涯取れないだろう。これが自分の性格なのだから。。。

2006年8月14日 (月)

夏ばて

夏ばて気味である。人間は身心が健康でこそ、よい考えやよい行動がとれ、心にも余裕が生まれる。今日は考えることがすべて裏目に出た。相手のせいではない。自分の体調が悪く「身心」が健康でないせいであろう。身体をゆっくり休ませたいが、なかなかそうもいかないことも多い。上手くいかないからこその人生とはいえ、辛いものだ。。。

2006年8月13日 (日)

浅知恵

「疾風といえども半日も吹き荒れることはない。豪雨といえども一日中降り続くことはない。」

これは老子に出てくる言葉である。自然は人間の自由には動いてくれない。ましてや私レベルの人間の浅知恵では、仏教で言う六道のうち「修羅、餓鬼、畜生」に存在しているであろう輩相手には言葉も通じないだろう。しかし、自由にならないからといって諦めるのは悲しい。

2006年8月12日 (土)

「私は翼を持ち、山の頂にあこがれる。私はしっかりと飛ぶ。私には翼がある。嵐を突き、青空をよぎる翼が。」(ヴィクトル・ユーゴー)

今の私は力のない、翼をもてない飛べない小鳥のような力しかない。しかし、いつか大空を羽ばたけるように耐える時期も必要だと思う。

2006年8月11日 (金)

五島慶太

引き続き、「信念」に関することである。非常に前回と似ているがお許しいただきたい。東急グループの創始者である五島慶太氏は以下のように述べている。

「人間は知と行だけではダメである。そこには必ずだれにも負けないという信念が必要だ。」

勝つための信念は昨日書いた「チャングムの誓い」でも邪魔な信念として扱われているが、「誰にも負けない信念」は絶対に必要である。私の所属する会社でも「権力」や「感情」が「信念」を捻じ曲げることが毎日ある。もちろん権力にはかなわないのはこのブログのテーマであるから、私はひたすら信念を隠している。

「信念」は使えるときに初めて使えるのである。強大な権力に権力を持たない人間が「大きな信念」で立ち向かっても歯が立たない。しかし、だからといって迎合もしないし、自分を変えることもしない。信念を持ち続けることは絶対にやめてはいけないと思う。

自分が「信念」を使えるそのときまで。。。果たしてそのときが来るのであろうか?私にはわからない。。。

2006年8月10日 (木)

吉川英治とチャングムの誓い

吉川英治さんといえば、歴史小説の大御所である。私もいろんな小説を読んで、現代に知恵として生かしている。前にも書いたが歴史は繰り返されるのだ。その吉川さんの言葉に以下のような言葉がある。

「無心さ、純粋さ、素直さなどは人の心を打つ。その力は、こざかしい知恵をはるかに凌駕する。」

この言葉を私の心に強く突き刺さる。ちょうど「チャングムの誓い」という韓流ドラマをDVDで観ているが、同じようなことが出てくる。

勝負に勝つためにこざかしい知恵で失敗した主人公を戒めるために、自分で気がつくまであえて自分まで窮地に追い込んでも信念を変えない。

「料理人に必要なのは相手を思い遣る真心、どんな相手にでも毒になる料理は出してはいけない。相手を思いやり、時にはどんな相手にでも料理で換言をする。」ということである。

私も同感である。何を差し置いても必要なのは「心」である。立場が違えば必要な真心が違うのは私も充分に理解している。しかし、そのときに自分にできる精一杯の真心を示せないようでは生きている価値がない。無駄な努力とわかっていても、相手に通じないと分かっていても、今できることは今しかない。

「吉川英治さん」と「チャングムの誓い」。まったく違うところに「こざかしい知恵」ではなく「真心」でやるべきことだと実感する共通点が見つかったのは収穫であった。

2006年8月 9日 (水)

ワタミ

表題の思いや心を持っている方がどれだけいるだろうか?打算で動き、権力に媚びを売り出世する、そんな世の中になってきたことは悲しいことである。人の役に立ちたいと思う人間が本当に少なくなった。(以前より書いているがもう自分は嘆きの状態である。)

以前「カンブリア宮殿」という番組で外食チェーンの「ワタミ」の社長が以下のように語っていた。

「採用の条件は夢を持つことである。その夢に向かってワタミを利用してもかまわない。逆に夢を持たない人間などはいらない。」

そしてご本人も介護や高齢化社会へ積極的な行動を取っておられる。もちろんワタミの食材もできるだけ農薬を使わないものを仕入れ、さらに安価な価格でお客様に提供できるように努力をしている。

こういう社会を変革しようとする経営者が世の中には必要なのであろう。私の所属する会社などは役員は部下からの報告を待ち、ケチをつけるだけの番人。そして不毛な儀式で内部ばかり向いていて本当にお客様の方を向いていない。

成長する会社の条件はただ一つ。

「現場を経営陣が把握することである。」

部下から茶坊主のように報告されるゆがんだ事実を鵜呑みにして、役員部屋から出てこない役員など害になるだけで不要である。

2006年8月 8日 (火)

官僚と政治家の発想

今日は過去の自分の経験談を語る。国家財政や地方財政が危険な状況にあることはニュースなどで知っている人が多いと思っている。前にもリンクを張ったような気がするが、日本の赤字財政カウンター(http://www.kh-web.org/fin/)を見ると怖くなる。。。

それでも自分のつたない経験によると官僚と政治家(及びその周辺に群がる輩)は「自分達は特権階級である。だからどんなに日本の国家財政が赤字(赤字国債の発行額は急激に増え続けている)になっても自分達がもらう額を減らそうとはしないし、逆に自分の分は懐にしまってから、さてどうやって減らそうか?」と考える。おいおい、いい加減にしろ。

当然のごとく「医療費の自己負担分を上げる、恒久減税を廃止する、年金の負担料も上げる、さらに最後の手段として消費税でも上げて庶民に負担させるか?」と考え、「政府が発表する統計資料(例:出生率)まで操作する。」というのが現在の日本である。公僕であれば自分達の給料を返上してでも国家に尽くすべきである。昔はそういう政治家や官僚がいたことも事実であると思う。通商産業省(当時)の高級官僚(言い方は身分制度のようでいやだが)の方が書いた「官僚たちの夏」と言う本を読んでそれとのギャップに経験者として驚いた。

今は国民の目をごまかすために、公務員宿舎の家賃を上げる、売却して借金を減らすなどと言っているが、上記のカウンターを見れば一目瞭然。小手先のアピールでしかない。さらに悪どいことに新しく新築の公務員宿舎を数百億円の税金を使って建てている。

呆れてモノが言えない。まあこれが日本政府の現状であるし、昨日書いた「人のために・・・」ということを全員が思わないと変わらないであろう。

住みにくい世の中になったものだと思う。

一つだけ言えることは、日本は「民主主義国家、資本主義国家」ではない。それは見せ掛けで官僚や政治家が支配する「共産主義国家」である。何故そのことに国民が気がつかないのか、内閣の支持率が高いのか、私には理解できない。

2006年8月 7日 (月)

自分以外のために・・・

赤ちゃんは人の心を癒してくれる。親は寝る暇もなく非常に大変なのだが、私も娘が1歳を過ぎた頃から育児を自分が中心となって経験をしたので分かっていて書いている。

でも産まれたばかりの赤ちゃんは見ているだけで癒される。赤ちゃんは周囲の人を癒そうとしているわけではないが、我々はそういう身近なところから「人のために何ができるか?」ということを考えなくてはいけないと思う。

また他の人の言葉を使ってこのブログを書いてしまう自分も悲しいが、欲のない、物が不足していた、理想主義がまだ生きていた、そういう時代の昔の人の教えには共感を覚えてしまうのでので仕方ない。今日は演説を引用をさせていただく。

「人のために何かすることで誰もが素晴らしい人になれる。」

1968年に暗殺されたマーチン・ルーサー・キング・Jrの演説での言葉である。

同じくダラスで暗殺されたアメリカ大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK)も就任演説で「国家に何をしてもらうのではなく、国家に何をしてあげられるかを考えてほしい。」という演説をしている。

共通しているのは「自分以外のために・・・」である。こういう言葉を今の世の中を席巻している「利己主義」、「金儲け主義」、「自己中心的な人間」も聞くべきだと思う。そして素直に耳の痛い言葉を聞きいれ、反省すべきだと思う。そうしないと確実にこの国は(もちろん自分の会社も)潰れる。

2006年8月 6日 (日)

民俗学の道

今日も読んだ本に付箋を付けておいて共感した言葉である。このタイトルは宮本常一さんという民俗学者の本の題名である。昨日までとはうって変わってゆったりとした言葉ではあるが、たまにはリラックスして、こういう言葉もいいなと思って書いてみることにする。

「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。」

基本的に私はこういう人が見逃したところを注視してみるように普段から心がけている。10人以上が見た書類が私のところで間違いが発見されることがたくさんある。また私が見逃すこともたくさんあり、その時は上司の1名の方が同じような考えで見つけてくれる。だからといって油断はしないようにしているが体調や心理状態によってミスもある。だから人間なのだ。

仕事も民俗学も似ているなあ、と感じた。しかし、何度も仕事上でモチベーションを下げられても、はしごを外されても条件反射の私はまったく学習能力がない。懲りないのである。焦らず、自分の選んだ道をしっかりと歩けるといいとは思うが、まだその道すら見つかっていない。

2006年8月 5日 (土)

坂口安吾の悪妻論

最近では毎日、以前の読書によって本当に感銘を受けた言葉を見返すことが多い。この本もその一つである。本当は違う目的で読んだ本であるが、前後は省略して言葉だけを紹介する。

「悲しみ、苦しみは人生の花だ。」

意味は「生きているからこそ、悲しみや苦しみを味わえる。そして、だからこそ、人間は心豊かになれる。」ということであろう。

私の家族は娘も含めて「悲しみ、苦しみ」の極限にある。先日も娘に「ママが死ぬのが怖い。」と寝かしつけのときに1時間以上も泣かれた。

前にも書いたが私の配偶者は若くして脳卒中になり、厳しい後遺症(左半身の感覚なし、常に剣山で刺されるような痛み、30分以上正座した後のようなしびれ)と闘っている。こういう感覚が24時間続いていると聞かされている。だから、仕事をしている時間はそっちに集中することで少し楽になる、ということで就職もO.K.した。またストレス発散のための買い物なども出来るだけ自由にさせてあげたいと心から思う。

でも娘に悪影響を与える言葉を娘の前で発するのはやめてもらいたいし、私と向き合って話し、妥協点を見つけたいと思うのも私の本心である。しかし、後遺症の辛さは本人にしかわからず、本人も毎日「限界だ。死にたい。」と言っている。脳卒中の後遺症としては厳しい状況だが、こんなに生活習慣病が騒がれている中、こういう後遺症を持っている方はたくさんいると思う。早く医学が進歩して欲しい。。。

苦しみや悲しみが人生の花だ、と言われても私にはまだ苦しみとは苦しみでしかない。きっと配偶者もそうだろう。自分の苦しみで精一杯で、だから他人に目が向かないのであろう。私は早く自分の心を無にして、配偶者の言動や行動、その他すべてをありのままを受け入れるようになりたいと思っている。そうすれば心が豊かになれると信じて。。。

2006年8月 4日 (金)

新渡戸稲造

最近、いろんな方の言葉を引用することが多い。読書量が異常に増えているからである。感銘を受けたところに付箋を付けておき、時々めくっている。ご縁だとは思うが、今日は新渡戸稲造さんの言葉が目に付いたので紹介させていただく。

「いかに苦しいことがあってもヤケになるのは短慮の極みである。逆境にある人は常にもう少しだと思って進むがよい。いずれの日か前途に光明を望むことを疑わない。」

この言葉は昨日の続きである。私はこれからも無謀と分かっていても権力に闘いを挑むだろう。しかしヤケになることはしない。ただ、気持ちの整理をするために菩提寺の念仏である「正信念仏げ」を唱えることは多い。私の現在は逆境の極みにあると思う。でも努力を続けていれば「前途に光明が差してくる。」ことを信じてみたいと思う。

ただし、今の会社という考えではなく、自分の人生の光明という意味である。

2006年8月 3日 (木)

魯迅と今日の私の考え

昨日に引き続き、人物紹介と私が感銘を受けた言葉を紹介する。小学生の頃「阿Q正伝」を読んで感動したので、数ヶ月前にまた読み返してみた。

その魯迅は以下のように述べている。

「自己満足しない人間の多くは、永遠に前進し、永遠に希望をもつ。」

私は「パブロフの犬」である。会社にどんなパワハラを受けても条件反射で人生に対して常に100%で頑張ってしまうように身体が無条件で反応してしまう。モチベーションはないが、自己満足もしていない。どんな時でも問題意識を持つことを忘れない。だから条件反射という問題意識で書類や組織の体制、経営者の資質、無駄な儀式などに反応してしまうのである。この私の条件反射は上記の言葉の「自己満足していないから、永遠に前進し、希望を持つという言葉と共通するのではないか?」と思った。

徐々に改革するのがいいのか、一気にやるのがいいのかはその組織によって違うはずである。私は会社の壊れ具合を考え、一気にやらないと壊れると考えているだけである。確かに権力はない、肩書きもない、でも会社の本質を見極めること、会社の将来を憂いていることは誰にも負けない自信はある。

また、これは私の性格であるから変えられようもない。ただ、「物事の本質を見極めた理想主義、そしてそのための対策を考えること。」これだけはどうしても考え続けてしまう。決して妥協できない。

人間が違えば考え方も違う。このブログのタイトルである「非理法権天」からわかるように結局は「法や道理」は「権力」には勝てないのである。

しかし、無駄とわかっていても、何度撃沈しても、上司に逆らい評価が下がり続けても、自分が「この会社は治らない。」と悟って会社を見限るまで闘いを挑むつもりである。

私が会社を去ることを残念に思ってくださっている方が会社の内部にも少しではあるがいてくれる。それだけが支えである。

2006年8月 2日 (水)

土光敏夫

いわずと知れた中曽根総理大臣時代の経団連の会長(経済界の重鎮)であり、行政改革と財政再建に取り組んだ人物である。

「土光臨調」では中曽根康弘総理大臣に「自分の意見を絶対に通していただかないと引き受けない。そうしないと財政悪化(100兆円の借金、今の10分の1)で日本は潰れる。」と言ってすべてを飲ませるほどの説得力を持っていた。国鉄の解体や様々なことを進言してきたが、結局は政治家や官僚の談合につぶされ、政府は増税を決定し、「増税なき財政再建」は骨抜きにされた。

土光さんの悔しさはどれだけのものであったか想像に難くない。土光さんの食事をテレビで見たことがある。目刺しや野菜と少しのご飯、増税なき財政再建をするには、質素倹約が必要だと自分から実践して見せていたのである。こういうところは「徳川吉宗」に似ている。

しかし、その後の土光さんは日本をただ見守るしかなく、悔しさと人生の教訓を以下の言葉のように残している。

「私自身は21世紀の日本を見ることはないでありましょう。しかし新しい世代である、私たちの孫や曾孫の時代に、我が国が活力に満ちた明るい社会であり、国際的にも立派な国であることを心から願わずにいられないのであります…。」

「失敗は終わりではない。それを追求していくことによって、はじめて失敗に価値が出てくる。失敗は諦めたときに失敗になるのだ。」

会社も同じであろう。もう2-3年しかいない脳みそが退化した保身だけの老人が今後の方針を決め、20年後、30年後まで同じ会社で働く人間のことを考えずに、周囲にイエスマンを集める。耳に心地よい言葉しか聞き入れない。権力行使にのみ尽力を注ぎ、これからの人間のモチベーションを下げ続ける。こんなことは企業の存続に際して決してあってはならないことである。

何もしないことで減点を免れる、詭弁による責任転嫁をして、上司のご機嫌をとる。こういう人間達は自分の失敗を絶対に認めない。部下であろうが上司であろうが責任を取らせやすいところに押し付ける。

私は少なくとも土光さんの精神を絶対に忘れない。

2006年8月 1日 (火)

思考に功名心は邪魔

私は将棋を指す。しょーもない話ではあるが、自分が小学生の頃に将棋界の頂点に立っている「羽生善治三冠」と同じ将棋道場に通っていた。同じ小学生だったこともあり、何度か3つ年下の小学生の彼と指したことがある。(彼が入ってきて3か月頃であったが当然、1度も勝てずボロ負けした。)

負けず嫌いの私は、実力差に唖然としてそれ以降将棋道場に行かなくなってしまったのだが、彼がプロの頂点に立っていることを考えると、負けて当たり前だったのである。でも未来は見えないのだから判断が正しかったのだろうか?

しかし、行かなかったのは間違っていなかったと思う。その時の私は将棋のプロになることも少しだけ考えていたが、努力を繰り返し狭き門を乗り越えてプロになれても羽生にボロ負けのプロレベルだったと思う。それでは将棋の真理・本質を目指す意味がないからである。

ところで、名人位を19期も保持していた故大山康晴十五世名人の言葉に以下のような言葉がある。

「功名心をしりぞけて、平常心、不動心を持ち続けよ。」

将棋のような頭脳戦争の場合には、頂点に立ちたいという気持ちで努力をし続けないといけない世界であるにもかかわらず、その頂点にい続けるために必要なのは「功名心」は邪魔なだけであり、「平常心、不動心が必要」というのは深い意味があると思う。私も思考の際には出来るだけ「平常心、不動心」を持って思考という観点では頭脳の勝負ができればいいと思う。

2006年7月31日 (月)

目に見えないもの

先日の「真空(空)」の続きであるが、日本で初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の本の題名である。

博士は「中間子」という陽子と中間子を結ぶ力が存在することを予言した。そして実際に「高エネルギー加速器」を使ってその中間子が発見された。

博士の本の中にこのことを証明する以下のような言葉がある。

「現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となる。」

現実から物事の対策を始めることも大切だが、やはり理想や真実を追究することがどれほど大切かを思い知らされる言葉である。

2006年7月30日 (日)

使い捨て

今日は落合恵子の「唇の飢餓」の言葉を紹介するだけで終わりたい。

「使い捨てされる前に、捨てるものは自分から捨ててやる。」

自分の気持ちが揺れている。今週は会社の昼休みに菩提寺の宗派である「浄土真宗大谷派」のお経である「正信念仏げ」を大きな声で30分かけて2度音読した。その日の午後は少しだけ心が落ち着いた。

2006年7月29日 (土)

真面目な失敗

以前、自分の所属する会社では、「逆三無主義」が横行しているということを書いた。何もしない方が貶められないし、責任も押し付けられないし、摩擦も起きない。でもそれは会社が腐敗している証拠である。自分で考え、努力し、行動し、そして失敗したことは決して恥ではないと思う。アメリカで初めて自動車を作ったヘンリー・フォードも以下のように言っている。

「将来を恐れるものは失敗を恐れておのれの活動を制限する。しかし、失敗は成長に続く唯一の機会である。まじめな失敗は、なんら恥ではない。失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む。」

きっとこれからも私は数え切れないほど失敗を繰り返すだろう。そして何度も同じ裏切りを受け、自分に責任転嫁されることを繰り返されるだろう。でも自分では「恥辱」を持たないように失敗を恐れないように物事すべてに努力して生きて行きたいと思う。

2006年7月28日 (金)

平常心是道

今日、会社の先輩にこの言葉の本当の意味を教わった気がする。言葉自体は知ってはいたが、自分の力量不足で理解できないでいた言葉であった。

今までの私は「無理して平常心を保つようにする努力をすることが道(苦労というかいばらの道、すなわち心の修行)である。だから平常心を常に保てるように心の余裕を持てるといいんだ。」というように思っていた。

その先輩は禅宗の住職さんの法話を聞いて私に教えてくださったのだが、それが「物理学」を例にしたお話だったようで、私の専門分野だったため、なんかもやもやしていた意味が少しだけ理解できたような気がする。その解釈は以下の通りである。

「真空(仏教でいう「空」)」は実は何もないわけでなく、電子や陽電子などの反対の性質をもつ粒子がぶつかりエネルギーを発散したり、逆にエネルギーから物質が生まれたりを繰り返している。ビッグバン理論というのも実は、この物質と反物質のぶつかりあいの中で、「ほんの少しだけ」物質が残ったところから宇宙が生まれた。真空でも「物質と反物質が相互作用をしている、すなわち生死を繰り返している。「生死」の中での瞬間瞬間での意識の流れが生まれたり死んだりしている。だからこそ、その瞬間の意識(今)を大切にしないとすぐに消えてしまう、だから今を精一杯生きること。」

さて自分はこういう考え方ですべての物事を「空」と思える時が来るのであろうか?欲望の塊のような「修羅、餓鬼、畜生、地獄」よりは人間に近いとは自分では思っているが、この心を持ち続けることが必要なんだ、と改めて実感した。

今週の初めにも書いたが、私にはこういうことを教えてくれる人がいる。それだけで幸せである。

2006年7月27日 (木)

マルクス・アウレリウス・アントニウス

マルクス・アウレリウス・アントニウスの「自省録」を読んだ。「自省録」は彼の日々の思索と哲学を記した図書である。百科事典によると2世紀のローマ帝国の皇帝で「五賢帝」の一人であり、「折衷主義」の皇帝及び哲学者である。

「自省録」の中に心を打たれる言葉があった。それは以下のような言葉であった。

「このキュウリが苦い?それであれば捨てればよい。道の中にいばらの藪がある?避けて通ればいい。それで充分だ。」

逃げることは恥ではない、自分から見限り、避ければいいのだと思った。

2006年7月26日 (水)

頼りにしている人

我々は頼りにしている方をお持ちだろうか?

藤沢周平の「寒い灯」に「この世の中に自分のような人間を頼りにしている人がいるということは素晴らしいことではないだろうか?」という一文がある。

私は頼りにしている人がやっと日本に戻ってきてくれた。ここ数日間特に、諦めの気持ちが強くなっていたが、彼の顔を見て、もう少し頑張ってみようかと思った。

2006年7月25日 (火)

無駄な努力

世の中には努力しても無駄なことが沢山あると思う。どんなに知恵を絞る努力をしても、権力には勝てないし、価値観や考えが違えば通じない。そして徒労に終わり、疲労感のみが残るだけである。でも自分は知恵を絞ることだけは自分の本能としてやめられないようだ。

幸田露伴の言葉に「努力より他に我々の未来をよくするものはない。また努力より他に過去を美しくするものはない。」というものがある。

現実を直視し、それに対する対応や方策を考えても相手が理解してもらえなければ、そして誤解した上で、責任転嫁などをされてはまったく正論など通じない。どんなに知恵を絞っても「無駄な努力」になってしまっては、組織をよくすることではなく、自分の修行のため、過去を美しくするための「無駄な努力」としか考えるしかないのだろうか?

2006年7月24日 (月)

理想は現実からだと思うのだが・・・

ほとんどの人が理想と現実は異なっていることだろう。その理由として私は以下の発言を取り上げる。谷崎潤一郎の言葉である。

「我という人の心はただひとり われより他に知る人はなし」

自分の心は自分にしかわからない。でも共感は出来るし、相手を思い遣ることも出来る。でも何度も書いているが世の中には「現実」からスタートできない人が多すぎる。自分なりの理想は誰にでもあると思うが、スタートラインは現実であることに変わりはない。そこから「未来をどうやって作っていくか?」ではないだろうか。

相手を責めている時間などないし、人間には誰しも間違いはあるものであるということを理解することから理想への道が始まるのではないかと思う。

例えばミスした相手を責める、謝らせる、そんなことをしたことでその人は満足するのだろうか?謝らせてもミスが起きた現実は変わらない。お互いに憎しみや憤りが生まれるだけだ。少なくとも私はそんなことをしようとも思わない。だからこそ相手に説明してわかってもらえなかったら、自分の力量不足か、相手には自分の考えを理解してもらえなかった、と考えるようにしている。

今は自分の力量不足が甚だしく、現実からスタートした自分の理想からどんどん遠ざかっている。疲れた。ほんとに身心ともに疲れた。もう限界だ。どんな言葉も悪意に取られてしまう。今日は自分の能力を生かす場所はここではないと確信した日であった。

2006年7月23日 (日)

会社内の印象深い人(その1)

今日は私の会社の印象深い人(その1)について語りたいと思う。サファリパークのような場所なので、書く人間には事欠かない。ただ、私は仕事をするにはその人間のことを良く知らないといけない、という前提があるので他の人とは視点が違うのかもしれない。

ある時の上司との会話である。状況はその日の夜から深夜にかけて資料を作る指示が来るので「担当の部長も会社で待機している。」という状況である。予定通り夜の10時頃に発注が来た。ところがその部長、帰ってしまっていた。その資料は来年度からその部長が中心となって行う新規事業で、その詳細に関しては残された中ではその部長しか知らない。

私:課長、A部長なんですけど待機をお願いしていましたが帰宅してしまいました。仕事上の責任感のない方ですね。さて、どうしましょうか?

課長:そんなことないよ、あの人、いい人だよ。

私:はあ?いや課長、私はA部長の人格のことを何も言っていません。自分の新規事業が出来るかどうかの瀬戸際に約束を破って帰ってしまうという(仕事上の)責任感のない方です、という意味で言ったんですが?

課長:だから、そんなことないって。あの人はいい人なんだから。

私:・・・・・・・・・・・・・・・・。

もう会話する気持ちも起こらず、徹夜で素人の私が資料を探し回って概略だけの体裁を整えたことは言うまでもない。その時になんとなく、この上司は「いい人か悪い人か?」の区別しか価値判断の基準がない視野の狭い人だと思った。さらに、上記のことを確信した発言が後日にあった。それは以下のような言葉であった。

「どうしても苦手な人がいる。その人のいいところが見つけられないんだ。それが見つかれば100%好きになれるのに。」(私の心理:いきなり0%から100%か、おいおい、と正直思った。)

今でも良く分からない人ではあるが、視野の狭さと判断基準は変わっていない。しかし、こういう人の良いところを見つけようとするところだけは見習わないといけないと思う。

2006年7月22日 (土)

言葉の重さ

金曜日にサッカー日本代表監督にオシム氏が晴れて決定した。私も「オシム語録」を読んで含蓄の深さや行間の幅広さに感動し、親友に勧められて一気に読んでしまった。それまではまったくオシム氏のすごさをまったく知らなかった。またオシム氏は言葉の重さも教えてくれた。戦争すら引き起こすことが可能な言葉は慎重に発しなければならないことを痛感した。なんとなく思いついた語録を一つだけ紹介し、その語録に対する私の心のねじれも紹介する(笑)。

2003年4月 故障者が続いたチーム状況について社長に発言した言葉である。

「肉離れ?ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出す時に肉離れしますか?準備が足りないのです。私は現役時代、一度も起こしたことがない。」

この言葉には、選手の自覚が足りない、走る体力が足りない、頭を使って効率的に走らない、その他にもこの表現に詰まっていると思う。足りない部分は私のサッカー知識と想像力不足だと思う。

オシム氏は現在の戦力に決して文句も言わないし、補充の希望も出さないし、常にジェフにいる選手の成長を信じていた。もちろん同じ練習もしないし、頭を使って選手を育てた。だから今のジェフの強さがあるのだと思う。もの(選手)を欲しがらないすごさは感動的である。

記者会見でも「日本は他の国の真似をしないこと、日本人の利点を生かし、「日本化」することが大切。」というまたまた含蓄のある言葉を発してくれた。これはサッカーだけではなく、「日本の品格」や「日本人の道」にも共通すると私は思った。

中東情勢が悪化する中、無意味な世界一周卒業旅行に出かけ、砂漠で「ラクダに乗って楽だ。」とバカな発言をし失笑を買い、プレスリーの真似をしてはしゃぎ、ブッシュにたしなめられるどこかの国の総理大臣に聞かせてあげたい。

閑話休題。1990年、旧ユーゴスラビアの監督としてワールドカップで各連邦国の首脳(ユーゴは当時、民族紛争が耐えない7つの連邦国だった。)から「自分の国の選手を使え。」と圧力を受けていたそうだ。

その時の判断が、本選の初戦という大切な試合にもかかわらず(しかも相手は強豪西ドイツ)、各国首脳の言いなりになってバランスの欠けたチームでわざと望み、予定通りの大敗(1-4)。あんたたちの言うことを聞くとこういうことになることを証明したわけである。

それからは周囲を黙らせ、自分の思い通りのバランスのある布陣で臨み予選を突破した上にベスト8。やろうと考えても実践できることがすごいとしか言いようがない。

しかし、最後に私の心のねじれ(?)を紹介しないと終われない(笑)。本当に野うさぎは肉離れしないのだろうか?本当は肉離れをおこしてライオンに食われてしまった野うさぎがいるのを我々が知らないだけなのではないだろうか?野うさぎの生態を知らない私にはなんとも言えない。でも決してオシム氏を否定しているわけではなく、行間の広さには感動を覚える。

でも、自分もこういう言葉で語れるとしたら、語ってみたい欲望がある。会社では今でも浮いているが理解できない人間達からはさらに浮くんだろうな(笑)。

2006年7月21日 (金)

謝ることって難しいの?

今日、「報道ステーション」を見ていてふと思った。「年金手帳が13枚ある人がいて未納期間がある結果になってしまっている。」という内容だったと思う。社会保険庁が前歴を調べもしないで退職時などに新しい年金手帳をどんどん作ってしまったことが原因らしいが、年金手帳の整合性をとることなく未納期間があるから払えない、と社会保険庁は言うばかりである。

私の会社もお役所系統の考え方が強く、責任転嫁はしても自分の間違いは絶対に認めないし、謝らない人が非常に多い。自分が間違ったことに対して謝ることってそんなに難しいことなのだろうか?人間なんだから誰にでもミスはあるし、問題なのはミスした後にどのように相手に納得してもらえるように誠意を尽くすことではないだろうか?

脱線するが、司会の古館伊地郎が画面に13枚の年金手帳を見せながら「こういう事態をどう思うか?」と聞いていたが、逆にこれにも違和感があった。意図はわかる。社会保険庁はこういうずさんなことをしているってイメージの象徴として演出したのだと。でも私には「ふーん、1人で13枚の年金手帳を持っている人がいるんだという事実がある。」ということしか感じなかった。でももちろんそれだけで終わらせてはいけない。事実を把握したのだからこそ「社会保険庁はまずは謝ってきちんと事実を確認し、国民に対して誠実な対応をすることが必要。」と考えるべきなのである。

ちなみに余談だが、未だに各地方の社会保険事務所は「アイウエオ」でも「ABC」でもなく「いろはにほへと」で順番を管理しているという噂を聞いたことがある。事実だったら数十年前から何も改善をしていないように思えて怖い(笑)。

2006年7月20日 (木)

ヘミングウェイの言葉(その1)

代表的な作品であるが、「誰がために鐘は鳴る。」の一節に以下のような言葉がある。

「人間の人間たる価値は、敗北に直面したときにいかに振舞うかにかかっている。敗北とは屈服ではない。」

根回し文化の正反対の言葉だと思う。日本人の気質なのか、会議でも黙っている人間が多く、議論を嫌う。別に発言を否定されても屈服ではないと思う。ただ、自分に知識が足りなかったためにその議論に敗北しただけである。いや、実際には敗北もしていない。自分の考えが浅かっただけであり、人格が否定されたわけじゃない。

それなのに、何故か日本人は人格まで否定されたと思い、その議論相手を感情的に憎むという心理状況になる人間が多い。

私は公私は分ける。会社の親友でも考えがかみ合わなければ議論するし、落ち着きどころに落ち着くこともあるが、決裂することもある。でもその会議が終われば一緒にラーメンを食べに行く。そんなもんだと思う。

何で仕事上の議論が人格まで否定されると思うのか、そして10年以上も憎しみを持ち続けることが出来るのか、私にはわからない部分がまだまだある。

2006年7月19日 (水)

スクール・ウォーズ

前々回の「ワン・フォー・ザ・ロード」の言葉を読んだ直後に似ているので急に思い出した言葉がある。

昔のスクール・ウォーズというドラマでの「ワン・フォー・ザ・オール オール・フォー・ザ・ワン」という言葉である。私は当時、ドラマを観ながら泣いた記憶が残っている。

このドラマは簡単に言うと高校(実在する)の落ちこぼれラグビーチームが泣き虫の熱血先生の下で心を一つにして頑張っていき、強くなっていくという内容であるが、見た人も多いと思う。

この言葉は「一人はみんなのために みんなは一人のために」という意味である。団体でやるスポーツ全般に当てはまる言葉であると思うが、会社や集団社会全体にも当てはまるものと今回改めて思った。

すなわち、個人は組織(及び業務)の効率化(みんなが協力して考えて動くこと)を目指し、組織は逆に個人を思いやる(動きやすくしてあげる)ことで個人の能力を引き出す。その結果、組織力(及び業務遂行力)が強くなっていく、ということではないだろうか?

なんかふっと思いついただけに、こじつけている気持ちもするが、まあこれも思い出した「ご縁」だと思って書いてみた。

2006年7月18日 (火)

生と死はセット

これも菩提寺の住職さんから教えていただいた言葉である。人間は生まれた瞬間から全員が「死」への道を進んでいる、という意味である。(言われてみれば当たり前だが、私も住職さんに言われて初めて気がついた。。。)

人間という俗物に限定して話を進めるが、赤ちゃんであろうが老人であろうが全員がそうなのである。でも生死の瀬戸際にいる方やそのご家族以外のほとんどの人は認識していないのではないだろうか?

「今日、自分は死ぬかもしれない。」なんてことを考えながら生きていたら気が気でない。だから考えない。その結果、その日を精一杯生きる気持ちが生まれない。

今の私は逆に意識して考えながら覚悟の上での行動をすることにしている。会社や家でも当然だが、それ以外の全ての場所と時間でそう思うようにしている。なぜかというと以前に書いたかもしれないが「自分が生きていた全ての結果が死ぬ直前に分かる」と思っているからである。命は突然失われることもある、その直前に後悔をしたくはない。

2006年7月17日 (月)

ワン・フォー・ザ・ロード

バーテンダーの世界で使われる言葉であるが、この言葉の意味を簡単に言うと、「今日という一日にさよなら(特に別れを惜しむという意味もある)」ということである。では何にさよならするのか?

みんないろんな一日を送っていることだと思う。自分の心を偽った日、辛い日、悲しい日、怒りの日、いろんな一日がある。その結果、自分を嫌な存在だと思ってしまうこともあるだろう。でも次の日は必ず来てしまう。それもいい日とは限らない。また辛い日の繰り返しかもしれない。私も毎日がその繰り返しである。

いきつけのバーで最後の一杯を飲む(私は今は肝臓を壊しているため出来ないが。)ことで、嫌な一日に、嫌な今日の自分にさよならをして、気持ちを切り替え、また新しい一日を送る活力をもらう。そんな自由な時間があったら少しは苦しみから解放されるかもしれない。そういう意味の言葉である。。。

2006年7月16日 (日)

逆三無主義

「三無主義」とは「ムリ、ムダ、ムラ」をなくすという考えのことである。会社員で知らない人間はほとんどいないと思う。労力と労働時間を短くして節約していくことが肝心で、そうすれば必ず全体の経費削減につながると同時に考える時間が生まれて、会社や人間関係がよくなってくる。

三洋電機の創始者である「井植歳男」さんの言葉だったと思うが、今でも充分に通用するというか出来ていない会社が多いと思う。

うちの会社でもこういう基本的な考え方ではなく「権力」、「残業時間」、「責任転嫁」という「逆三無主義」が横行している。そのために、社内の雰囲気は最低で、「権力に媚び」、「能力のない人間が時間がかかっているだけの残業なのに高評価したり」、「責任を押し付けられないように責任感のある仕事をしない」、こういう状況である。なんとかしようと様々な方法を考えたが、結局、権力にすべてを阻まれた。

自分の考え方は「三無主義」である。「逆三無主義」の現在の会社でどこまで自分が持つかは五里霧中の状態であり、いつかは前回書いた中田英寿ではないが、「引き際に年齢はない。」という考えに基づいて行動しなければいけない時が来るのかもしれない。

2006年7月15日 (土)

中田の引退特別番組

今さっきまで、サッカーの中田英寿選手の引退特別番組を観ていた。今の自分は頭と心のリセット中なので、自然に相手の心が自分の心の中に入り込んでくるような気がした。特に何気ない場面や言葉から彼の想いが伝わることが多かった。(その後、中田のHPも読んでみたが同じ気持ちだった。)

それに加えて、ワールドカップの予選3試合の解説内容に関しては、実際の試合中の解説者がいかにいい加減かということもわかった。

「彼のすごさ。」ということに関しては具体的な言葉では語れない。非常に理論的であると同時に哲学でサッカーをやっている感じも受けた。さらに視点や次元の違いも感じた。きっと他の選手とのあらゆる部分での次元の違いがそう私に思わせたのだと思う。

周囲との考え方の違い、「責任」や「誇り」や「覚悟」という「気持ち(という言葉を彼は使っていた)」面での次元の違う人たちの中で、自分には何ができるか、という点をサッカー人生の中で一番悩んでいたのだと思う。

その結果、諦めなのか彼自身の考えなのかはわからないが、プロからの引退を決めたのだと思った。でもサッカーを捨てるわけではないようだし、肩書きが変わるだけである。

100%の努力を続けてきた結果、彼の身心はきっとぼろぼろだろう。それにしても引き際は見事だと思う。前にも書いたが、引き際の大切さを痛感するとともに、100%での人生を続けてきた結果での引き際には年齢は関係ないこと、これも見習わないといけないと思った。私も環境はまったく違うが引き際が来ているような気持ちになった。

2006年7月14日 (金)

今日の予定

昨日は「改革をしたい。」という思いは同じ方なのに、「現実」の認識の差によってその方にはしごを外されたという非常に辛い一日になってしまった。

今日は過去のブログに書いたとおり、脳みそのフォーマットを行う予定。フォーマットであるから当然、この1か月に考えた部分を全部消すのは仕方がない。この1か月、体調が悪かったにも関わらず、また夜遅くまで様々なことを考えてきたが、全部消す。

ちなみに脱線するが将棋の棋士は1局指すごとに2kg-3kgも減るそうだ。ほとんど動かないにもかかわらず、これだけ減るというのは集中して考えることは相当のエネルギーを使うことの証明ではないだろうか?比較の対象にはならないが、私もこの1か月で体重が7kg以上減った。

病気のため7か月かけて17kg減量した上での1か月での7kgの減である。脳みそを限界まで使って知恵を絞り、身心の疲れをぼろぼろになるまで感じるほどに考えたことが結果的に7kgのダイエットになった。

今回はダイエット成功という考えでよしとする。しかし、愛する娘とお風呂に入る時に湯船の中で「肉ベッド(私の体の上で娘が寝る)」にならなくなったことが娘には悲しいらしい(爆)。世界一大切なこの娘のためにも無理はしないように、また心に誓った。

2006年7月13日 (木)

現実を認識することの難しさ

私は「現実を認識するところから自分の思考が始まる。」と思っている。たとえどんな状況であっても現実から始めないと、思考のスタートラインに立てないし、現実から始めないとずれが生じるからである。

しかし、ほとんどの人間が、過去の「経験」や「蓄積」や「思い込み」というものが、思考を「本当の現実」から始めることを邪魔し、ついつい「過去の現実」から思考を始めてしまうため、先入観が入ったり、物事の視点がずれてしまったりする。そのため、始めてもいないのに最初から不可能だと思い込んだり、憤りや憎しみや人間が持っている様々な感情が生まれてしまっている。

そうなると当然ながら、現実からの思考にも最初から感情が入ることによって正確な判断が出来なくなるのである。そして誤った判断によって人間を狂わせる。世の中には「過去の現実」と「これからのための事実」の区別がつかない人間が多い。

今日はそれを痛感した非常に辛い一日であった。

2006年7月12日 (水)

「ご縁」って何をすればいいのか?

今日はパンを買いに行ったが、そのパン屋でこれも「ご縁なのか?」と思わせる小さな出来事があった。

よく飲み屋のトイレなどに「相田みつを」の文章が飾ってあることが多いが、たまたまその店のトイレに入ったら飾ってあった。その言葉がこれ。。。

「あとじゃできねえんだよなあ いまのことはいましかできぬ。」

ちょうど、先日書いたことであるがこの連休は私にとって脳のフォーマットの最中である。フォーマットの理由も「今は権力亡者の力が強すぎ、改革は無理だから時期を待つしかないのかな。」と考えていた。その矢先に、偶然目に飛び込んできたのがこの文章・・・

あの店にいかなければ、あのトイレに入らなければ、そのページでなければ、私が気がつかなければ、頭にインプットされるはずがなかったことだけは事実。

以前、菩提寺の住職さんに「あらゆる物事がご縁です。」とお言葉を賜った。その時には「確かにそうだな。」と思ったが、特別意識していなかったのだが、こういうタイミングのよすぎる「ご縁」はどのように捉えればいいのだろうか?そしてどのような意味を持つのだろうか?素直にこの言葉どおりに行動すべきなのだろうか?

それとも・・・いや、フォーマット中だから思考は停止しよう。きっと後でその意味が分かる時や「ご縁」があるはずだ。

2006年7月11日 (火)

バブロフの犬

私は仕事人間である。色々あって現在の会社へのモチベーションはなくしているが、職場で「間違っている書類や出来事」があったり、狂っている出来事が発生したり、困っている人がいたりすると条件反射のように「自分を犠牲にしてまで踏ん張ってしまう。」のである。

自分でも気がつかなかったが、これはバブロフの犬そのものである。自分で自分のことを理解できなかったのは自分が未熟であったとしか言いようがないが、諦めるしか仕方がない。

これも教訓だ。自分で自分のことがわからないのだったら、なおさら自分以外の人間のことなんてわかるはずもない、と無意味に納得させることで片付けることにする。

2006年7月10日 (月)

幼児レベルのパワハラ

どこの会社にも存在するはずであるが、権力を持った人間が「正論」や「法や道理(論理)」を封じ込めて間違った方向に会社を進めてしまうことがある。きっと私と同じサラリーマンの方であれば一度は経験しているはずである。もしそういう経験がない方がいたら、私に教えて欲しい。

パワーハラスメントは権力や肩書きが一番だと思っている人間が世の中にたくさん存在している限りなくなることはない。ただし、権力を持った人間がその権力の強大さに気付き、謙虚さを持つことでできるだけ回避できるはずである。

また共産主義であっても資本主義であっても所属する人間には様々な要因は存在しても必ず序列があることに気がつけば、少しでも少なくなるはずである。

パワハラにもいろんな種類があるが、会社を出れば雲散霧消してしまう「会社の肩書き」を権力として行使するほど醜いパワハラはないと思う。(なんだ、自分の会社か。。。)

2006年7月 9日 (日)

約束を守ることは可能か?

人間は約束を守ることは可能なのであろうか?

待ち合わせの約束や食事の約束など比較的守りやすい約束もあれば、最初から難易度の高い約束もあるだろう。私も人生を賭けた約束をすることもある。

「しかし不安であったり、不確実であったりして約束を守ることが保証できない。」という弱気の気持ちが自分の心の中にあるときは相手に対して約束をするべきではない。

所詮、どんな人間は約束を守れないのである。ナポレオンの「格言集」にも「約束を守る最上の方法は決して約束をしないことである。」という記述がある。私もその通りだと思う。

だからといって最初から諦めることはしてはいけない。努力が約束以上の結果を出すことも考えられるからである。そういう覚悟をした上で約束をすることは決して間違っているとは思えない。私はその心がけで物事を考えていきたいと思っている。

2006年7月 8日 (土)

許容量不足

人間の器と度量の話であるが、人間によってこれほどまでに違うものかと驚かされることが多い。

ある会社の人間ではあるが、相手がミスを繰り返すために、相手を罵ってばかりいる人がいる。挙げ句の果てには「私が担当していた時にはこんなことはなかった。」と言い出す始末。

実際にはその方も「ミス連発」で他の人間が気がつかないところでフォローを入れていただけなのではあり、本人が気がついていなかっただけ(笑)。

私はその方に「相手の考え方は自分と違う。だから自分の価値観でモノを考えないようにしてほしい。相手のミスを許せないほど自分はミスをしない人間だと言い切れるのか?」と諭すように繰り返し何度も話をした。

しかし、その方の憎しみは消えず、上司(不思議ちゃん)を連れて相手に苦情を言いに行き、相手も上司を出してきて罵り合ってしまった。相手は脳みそに皺はないが、問題のすり替えがうまいため、上手いこと丸め込まれ、ご丁寧にも「余計な憤り」をお持ち帰りになってきた。それを自分より立場の低い人間にぶつけてうさを晴らすから余計にたちが悪い。

私には最初からわかっていた結果である。だから諭して止めたのであるが、結果的には私に職責という権限がないために無意味であった。

人間の器や度量は全員違うのは当たり前であるが、これだけ器や度量が狭い人間が集まっている組織も珍しい。。。

2006年7月 7日 (金)

人が機会を見捨てること

フランスのことわざに「機会が人を見捨てるよりも人が機会を見捨てる方が多い。」というものがある。

「機会が人を見捨てる」とは「気付いていたチャンスを逃した」とか「機会を与えられたのに逃げた」とか、どちらかというと「心の勇気」がなかったためにダメになってしまったことではないだろうか?

逆に「人が機会を見捨てる」とは「自分が迷っているうちに選択できなかった」とか「やってしまって後悔した」とか「あの時やっておけばよかった」ってことだろうと思う。こちらも「人間の心の勇気」の問題かもしれないが、この2つには大きな違いがあるように思える。

すなわち「やろうとしたかどうか?」である。「やろうとしたが迷った」と「逃げた」は大きく違う。人間は迷う生き物である。その場で迷うのは当然であり、迷った結果、現在の自分の置かれている環境や状況で踏み出せないこともあるだろう。ただ、やらなかったよりも全然いいと思う。

このことわざはきっと「逃げる人間」よりも「迷う人間」の方が多い、ということが言いたいのではないか、と自分では解釈する。

さて、現在の私はどちらの状況なのだろうか、と迷っている。

2006年7月 6日 (木)

余計なことを考えることが大切

人間には勢いというものがあると思う。特に若い時には自分も怖れを知らず、無茶なことをしてきたものだと思う。反省することしきりだ。

年齢を重ねることによって「経験」という「余計なこと」が人間には積み重なってくる。人間は忘れる生き物であるから全部を覚えているわけではないし、もし人間に忘れるという便利な機能がついていなければ、過去の過ちに押し潰され、その人間は確実に壊れてしまうだろう。

この「経験」というものも便利なことがないとは言えない(?)。なんといっても後ろ向きな人間にとっては非常に便利で「前例がある(ない)。」とかいう言い訳に使える事である。

しかし私はその逆も考えている。「経験」ではないが「余計なこと」を考えることで思考の幅が広がることである。「風が吹けば桶屋が儲かる。」までの極端ではないが、実際に年齢を重ね、記憶力や思考力が低下してきた時に、「余計なこと」が自分の思考の役に立ってきたことも多く経験してきた。

私は男ではあるが、仕事の他に育児や家事や障害を持った配偶者の介護なども抱えている。そういう中では今までの仕事での考え方などまったく通用しないこと。かえって邪魔な時の方が多い。逆にそういう時にこそ「余計なこと」が役立っていることを実感している。

皆さんも「余計なこと」を考え、全然関係ないときに「あれ?これって役立つんだ。」という不思議な実感を感じてみてはいかがだろうか?

2006年7月 5日 (水)

たまたま(?)

先日、菩提寺の住職さんとお話をさせていただく機会があったことは以前に書いた。その時に、住職さんが「こうして2人が会えるのは無数のご縁。」ということをおっしゃっていただいた。

もちろん、自分が病気になるといった身近な「ご縁のなさ」が会えない原因になることもあるが、住職さんからは「ご縁というのは無数に存在し、たまたまその極端な例として「テポドン」が東京に落ちてこなかったこともご縁である。」というお言葉があった。

今日、北朝鮮は7発のロケット(テポドンもあった)を発射した。もし日本のどこかに落ちればどこかで無数に存在するご縁が断ち切られることになる。落ちていない状態でも株式市場では「地政学的リスク」と称して、株価が下がったりする。(まあ数日上がっていたので調整の言い訳に使われたのかもしれないが。)

住職さんも極端な例として話しただけのことではあったと思うが、こういう偶然なご縁もあるんだな、と思った。

2006年7月 4日 (火)

思考の空白

私はどちらかというと常に物事を考えている方である。最近の思考の基本的な基準は優先順位として、「人間」、「法と論理」、「正論」の順番である。

私にとって一番楽なのは「正論」である。「物事の本質を見抜き、その目標の達成のために必要なことを順序だてて考えていけばいい」(実際は難しいんだけど)からである。

「人間」を考える時には繰り返して言っていることではあるが、自分以外の人間のことなどわかるはずもなく、個々の考えや行動パターンが違いすぎて、好意が仇になってしまったり、失敗してしまうことが多く、非常に疲れる。

しかし最近は自分で意識して「人間」を基準にして物事を考える習慣をつけるようにしている。なぜかというと、「共感」という似たような価値観を持っていない人間にとっては、自分の正論が必ずしも相手の正論とは限らないからである。

いわゆるこれが「無駄な努力」と呼ばれるものであり、相手のことを知ること、相手の気持ちになって考えること、そうやって対策を考えないと必ず失敗する。(これは間違いないと思っている。)

そんな時、自分でもやっていて、お勧めしたいのは「思考の空白」を作ることである。

とはいっても、何も考えないということではない。

もちろん何も考えないことも必要であって、私も気心の知れた方々限定で、口から勝手に出てきてしまう言葉を制御せずに本能のまま発するというアホ丸出しな話をしながらたまにやるように心がけている。

しかし本当の意味は、脳の中の余分な部分を整理してリセットし、脳の中に新しいことを書き込める空間を作ることである。まあDVD-RWにフォーマットをかけるようなものだろうか?

人間の脳みそはニューロンとシナプスの電気信号(0と1、onとoff)のやりとりで出来ている。要はコンピューターと同じ原理で脳みそは働いているのである。

だとすると脳みそにもフォーマットをかけることでコンピューターと同じように計算能力(人間の場合には「思考能力」)が上がるのではないだろうか?

少なくとも自分の場合には意識してこれをやることで、思考範囲が広がっているような気がする。

2006年7月 3日 (月)

ご縁とイビチャ・オシム氏

「物事は現実をありのまま受け入れることから始まる。」ちょうど私が先週、菩提寺(浄土真宗)の住職さんにお話をしていただいていたときに言われた言葉である。

「現実、事実をありのまま受け入れること。自分の理想や思い込みとの乖離が人間の俗物としての様々な感情を生む。」(この言葉自体は何度も書いてきた。)

同じ事を今度サッカーの日本代表監督に就任した「イビチャ・オシム氏」が言っていた。「日本人は現実を認識すること、日本は日本人の特性を生かしたサッカーをすべきであり、それ以外にない。さらに世界一になりたいなら自分を監督にすべきではない。」

なかなかいえる言葉ではないと思う。見栄っぱりな人間や自分の価値観や人生観だけでものを語る人間からは、こういう言葉は出てこないと思う。

先日、親友に「オシムの言葉」と「オシム語録」の存在を教えていただいた。これもご縁であり、菩提寺の住職さんに言われた言葉とオシム日本代表監督の言葉が同じ、これもご縁であろう。

何が正しいのか、そして正しいことは存在しないのか、私にはまだわからない。でも事実は事実であり、それ以外のなにものでもない。私は「ご縁」という言葉を大切にしていきたいと思う。

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