「石田三成」という人物は歴史上の人物として知らない方の方が少ないだろう。1600年の「関が原の戦い」で東軍の徳川家康と戦い、敗れてしまった人物である。彼は近江佐和山19万2千石という小大名であった。その彼が事実上の大将となって関東250万石以上を持つ、いわば10倍以上の兵力と財力を持つ徳川家康という巨大な敵に戦いを挑んだのである。
今日は、何故、彼はそこまでの力の差をわかっていながら「徳川家康を武力で倒すべし。」と考えたのかを書いてみたい。(戦力分析や事前の根回しなどはまた後日。)
石田三成は豊臣秀吉によって役人としての能力を見出された人物であり、「豊臣政権」の「奉行職」として政権の維持に尽力を注いでいた。晩年の豊臣秀吉の乱行については諸説あるが、秀吉が死んですぐに「豊臣政権」がなくなったわけではないことをまず知っていただきたい。
豊臣政権は「五大老(ここに徳川家康他4人)」、「五奉行(ここに石田三成他4人)」による合議体として運営されていた。(「中老」が3人いたという説もあるがあまり影響がないので触れない。)秀吉はどちらかというと「五大老」をアドバイザー機能として扱っており、中心は秀吉を頂点とした「五奉行」が政権運営するという形であった。
秀吉は晩年、大名間でつるみ、政権にひびが入ることを回避するため「大名間の婚姻を禁じる。」という法律を出した。しかし徳川家康は秀吉が死ぬとすぐに「加藤清正」、「伊達政宗」などの有力大名と婚姻関係を結び、その法律を破り続けた。奉行が家康に詰問しても「忘れていた。年をとると物忘れがひどくなる。」という何とも白々しい人を食ったような回答で追い返し、その後も婚姻関係を拡大してそれを自分の味方(戦力)に入れようと力を注いだ。家康はわざわざ法律違反を起こし、混乱に乗じて政権を奪い取ってしまうという作戦を立てたのである。
あくまでも豊臣政権の維持に尽力していた三成はこのような動きを見せる家康を許すことができなかったのである。力(権力)のあるものが政権を奪うのは当然である、という意見もあるだろう。しかし、今までの秩序を守ることによって国と民衆を守るというのも一つの方法であり、いわば天下分け目の関が原は、「欲と力」vs「秩序」の戦いだったわけであり、三成は「秩序」側の代表だったということである。
結果は家康が各大名に手を回したことによって裏切りが続出し、東軍の勝利に終わったが、ここにはいくつかの教訓と時代背景がある。
1.当時は秀吉政権が日本を統一したとはいってもまだ「下克上の最終時期」であり、力のあるものにすりよる人間が多かった。
2.秀吉に認められて政権の中枢に上り詰めた三成は他の人物も自分と同じように秀吉に恩義を感じており、「豊臣政権」が続くことを望んでいると勘違いしていた。
3.三成は西軍の総大将としての戦力を持たない小大名だったため、強力なリーダーシップ(兵力=力)がもてなかった。また「こうあるべき」という理想論に基づいた戦略しか立てられなかった。
4.その結果、関が原に集まった大名は西軍(三成側)の方が多かったが、戦いの前にはすでに東軍(家康側)に寝返っている大名がたくさんおり、実際に戦ってくれる戦力が少なかった。
という状況により西軍(三成側)は負けたのであるが、三成は自害せず戦場から逃げた。それは何故か?「一度負けても命さえあればまだ秩序を守る(家康をつぶす)チャンスはあるはずだ。」と考えたからであった。結果的には伊吹山中の洞窟に隠れているところを捕まり、首を落とされるのであるが、首を落とされるために向かった籠の中で以下のような会話があったという逸話がある。
三成:喉が渇いた。水が欲しい。
籠運び:水はない。干し柿ならあるので、これで潤せ。
三成:柿は「痰の毒」なので食べない。
籠運び:これから首をはねられる人間が何を言う。
三成:自分の理想を追い求める者は最後まで諦めず、命を大切にするんだ。お前のような雑兵にはわからないことだ。
三成には秀吉に見初められた時の気配りのするどさを教えてくれる「三献茶」や「関が原で敗れた時の佐和山城には蓄財がほとんどなかった。」や「幻の百万石」などの沢山の逸話が残されているが、私はこの逸話が特に好きである。狂った権力に負けず最後まで諦めることなく「志」を持ち続けなければいけないという気持ちにさせてくれる。
歴史は時の権力者の思い通りに変えられてしまうのが常であり、石田三成は「権力に逆らった悪い人間。」と思っている方も多いかもしれないが、実際は時の秩序に逆らって力によって強引に権力を奪い取ったのは家康の方である。
石田三成、その思想や生き方に関して、私の理想とする人間の一人である。「判官贔屓」という言葉があるが、えてして敗者の方が美しいと感じてしまうのは私だけはないだろう。
脱線その1:「三献茶」
秀吉が鷹狩で三成が修行中の寺に立ち寄って「茶が欲しい。」と言ったときの話である。秀吉は走って喉が渇いているだろうと思い、1杯目は「一気に飲めるように大きい茶碗にぬるいお茶」を、2杯目は「落ち着いて飲めるように少し小さめな茶碗にして少し熱く」、3杯目は「お茶の味をじっくり味わえるように小さな茶碗に舌が焼けるほど熱く」というお茶の出し方をしたという話である。相手がどんな状態にあるかをわかった上での「気配りの大切さ」と「もてなしの心」を教えてくれる。
脱線その2:関が原の戦い後の「佐和山城には蓄財がほとんどなかった。」
三成は常々「主人からいただいた給料は全部奉公のために使うべきである。」と常々言っていたようだ。しかし、彼は政権の中枢にいたので、賄賂をもらっていると思っていた。しかし、実際に彼はそういうことは一切せず、本当に居城に金目の物は何も残していなかった。踏み込んだ徳川方の大名はその質素さに、「これが政権の中枢にいた人間の城か」と驚いたそうだ。「有言実行」、「清廉潔白」な人物である。さらに佐和山城は綺麗な城ではなかったが非常に頑丈な城であったらしい。城の役割と見た目が綺麗でも中身が伴わないと意味がない、ということも本質的なことを教えてくれる。
脱線その3:「幻に消えた百万石」
秀吉が三成の功績に対して、九州で百万石を与えようとしたことがあったらしい。それに対しての三成の回答は「九州では遠く離れてしまって上様(秀吉)のそばでお仕えすることができなくなり、上様のご期待に添えなくなるのでいりません。」であったそうだ。彼は私と考え方が同じである。私も会社で働くことの意義は「お金(給料)」じゃなくて「会社や上司からの信頼、それに答えようとする期待、そして働き甲斐。」である。
三成は「仕事に対する私の人生観の基本となる考え方」を作り上げた人物である。(今や何故か過去形。。。)
余談だが(さらに脱線するか?)、しかし、結果論ではあるが三成に百万石あれば名実共に西軍の総大将になることは可能であっただろう。そうしたら徳川への寝返りも減り、歴史も変わっていたかもしれない。
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