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2006年6月30日 (金)

自己中であるからこその人間

このタイトル、「人間は全員自己中」とどちらにしようか迷った。「鶏が先か卵が先か。」と同じではないのかと。俗物である人間だからこそ自己中心的発想をするのか、自己中心的な発想をするから俗物である人間なのか。

人間が俗物であるなら、六道の中で「人間」から「天」に行ける様に修行すればいい。すなわち自己中心的な発想をやめることが修行であり、そうすれば「天」にいける。

しかし、「天」に行ける人間が限られているのであれば、人間という俗物のまま一生を終えるしかなくなる。そうなると諦めの気持ちも生まれてきてしまうかもしれない。そしてさらにエスカレートした俗物になっていく。

さて、考え方としてはどっちなんだろうか?私は前者を選び、修行を続ける方を選ぶ。

2006年6月29日 (木)

忙しぶる人々

世の中には「忙しい、忙しい。」が口癖のような人が沢山いると思う。でも本当に心底忙しいことめったにあるものではないのではないだろうか?何度か書いているが、私の配偶者は脳出血によって左半身の感覚がない。しかし外見的には普通に見えるので、満員の通勤電車の中で突き飛ばされたり、時には「のろのろするな。」という罵声を浴びせられたりひどい扱いを受けている。そういうことをする人は障害の有無に関わらず普通の人にも同じ事をしているだろう。

それにしても、その人達は何でそんなに急いでいるのだろう。きっと会社に遅刻する、だとか営業先に遅れるとかその程度ではないかと思う。その本人達にとっては重要なことなのかもしれないが、他人を突き飛ばしたり罵声を浴びせていくほどの忙しさとは思えない。

そもそも自分がいないと組織が回らないとか自分が組織を支えていると思っている人間がいたとしたら、その人は「大勘違い人間」であろう。どんな立場、どんな権力の人間でも代わりなんていくらでもいる。それは総理大臣や大統領でも同じだ。決して代わりになれないの人間の命ではないだろうか?

よく言われる言葉ではあるが、「忙しい」は「心を亡くす」と書く。きっと「忙しぶる人々」は人間の心を亡くしているんだと思う。こういう考え方で大目にみたいと思うが、今は私自身も心の修行不足のため無理。

いつになったらできるのだろうかは、私にもまったくわからない。。。

2006年6月28日 (水)

説法

私の会社には「人間としての器」が限りなく小さく、「度量もまったくない」人間がいる。このブログでは「不思議ちゃん(約60億人いる世界で一番自分が不幸と考えている)」と呼んでいる。

今週、あるイベントがあったために、ただでさえ小さな器が溢れきり、上司や部下への信頼関係がないために、ひたすら部下に仕事の指示と称して意味不明な喧嘩をふっかけ、「職責」(課長と課長代理など)の違いを最大限利用して部下や上司に責任転嫁、八つ当たりして邪気を撒き散らしていた。

私もまた「赤ちゃん菩薩」であり、「こだわりのなさ」、「ありのままを受け入れること」、「流されるまま流されること」を考え「憎しみ」などという邪心を出来るだけ持たないように行動するように努力していたが不思議ちゃんの邪気は尋常なものではなかった。(結局私も週末に家庭に少なからず邪気を持ち込んでしまった。反省せねば。。。)

結局、同じ部署のほかの方々が「積年の怨み」と今回の邪気によって「感情のぶつかり合いの大喧嘩」になってしまった。不思議ちゃん(その喧嘩相手はできるだけ冷静になろうと努力していたが)は自分が何を言っているのかわからず「相手の気持ちがわからない。」と言っていたが、当然ながら違う人種なのでわかるはずもなく、特に不思議ちゃんが「その場しのぎ」で言っていた言葉の意味を理解しようと考えていた部下の方がものすごく辛そうであった。

そこでその日の夜に「赤ちゃん菩薩」レベルの私が不思議ちゃんに説法をしてみた。時間は4時間。彼は話の終わりに「心が晴れました。もっと心に余裕を持って部下に優しく接します。」と私に話していた。

しかし私は彼は私の話を理解できるはずはないと最初から思っていたので、不思議ちゃんの心の変化を「今日は晴れ、明日は曇り、あさってはどしゃぶり、3日後には元の木阿弥。」かなと想像していた。無駄だと知りながらも他の方々に被害が及ばないように、私からの一度だけの慈悲の心であった。

しかし私の予想は大ハズレ。翌日からもさらにパワーアップして部下に邪心のかたまりのように「職責」を利用した喧嘩を売っていた。「今日は晴れ、曇りや雨はなく、いきなり翌日から元の木阿弥。」であった(笑)。まさに不思議ちゃんの本領発揮で、一晩寝ると全部を忘れるらしい(笑)。

まあこんな人間も世の中にはいるものだ。共感できない相手の気持ちを考えるという無駄な行為をやめるための事例として書かせていただいた。

きっと不思議ちゃんは「六道(仏教用語で6種類の世界のこと)」(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の中で「今の段階で畜生や餓鬼の世界にいて自分を磨くことをしなければ地獄に落ちるんだろうなあ。」と感じた。それもまた不思議ちゃんの人生だ。私は知らん。

みなさんも自分が「六道」のどの位置に自分がいるのかを考えてみてもいいのかなと思う。

2006年6月27日 (火)

ヘルマン・ヘッセの言葉

「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉があるが、これは考え方や価値観が共感できる人間同士しか通用しないと思う。

ヘルマン・ヘッセの言葉に「勇気と節操を持っている人達は、他の人たちから見ると、いつだって非常に不気味なものだ。」というのがある。

今の私の置かれている環境はまさにその通りである。分かってくださる人は分かってくださるが、非常に存在や扱いに困っているために脅え、憎しみそして貶めたり、攻撃を仕掛けてくる人間達がいる。

私自身はまったくこだわりがなく、職責の秩序は守るし、肩書きにも興味がない。会社から出れば、社長であろうとヒラ社員であろうと1人の人間であることに変わりはない。でも世の中にはそうは思わない人間が多い。会社から出ても肩書きにこだわり、会社内でも「勇気と節操」を肩書きで押さえ込もうとする。

会社というのは人間の本性が現れる不思議な場所だと思う。

2006年6月26日 (月)

頑張らないことが大切

身心が健康な方はある意味で冷静に自分の考え方に基づいて行動していると思う。しかし、その行動がすべての人間にプラスに働いているとは私には思えない。逆にマイナスに働くことの方が多いのではないだろうか?

憤りや憎しみの気持ちで接したところで、お互いの人間関係にプラスになることはなく、自分だけでなくほかの方の心にも偏見や邪心を植え付けてしまったりすることも多い。自分が優しい心で接しても相手がそう受け取ってくれないことも多い。だからといって相手が悪い、とは思わないことである。

自分以外の人間のことを理解しようと頑張っても、魂が入れ替わらない限り無理だし、私も最近、頭で考えていたためだとはいえ、自分の心でさえ、自分で理解できないことがわかってきた。自分で自分のことを理解できないのにほかの方の考えを理解できるはずはないと思う。ただ、生き方、考え方、そういうものを共感できる方々は沢山いる。私の親友もそういう方々ばかりである。

理解しようとする努力は必要だし、そのためには自分の価値観による「色眼鏡」を捨て、本当に相手の立場で、相手の環境で、相手の性格や考え方などを総合的に見ることが必要だと思う。

では実際にでは人間はどう気持ちの整理をすればいいのだろうか?よく言われることだが、「うつ状態あるいはその回復期」の方には「頑張って。」という言葉は禁句(「責任感を持って頑張っている人にこれ以上何を頑張れというのか」という意味)と言われている。しかし以前にも書いたが人間は「波動」で動いている。人間はどんな状態であるかに関係なく、私は無理をしないこと、頑張らないことが大切なのではないかと思う。

身心が健康な方でも嬉しかったり辛かったり、という気持ちの波が誰にもあるだろう。定規で線を引いても顕微鏡で見れば線ではなく、波を打っているだろう。人間の心はそれと同じで、常に「波動」である。

そういう人間の「波動」をありのまま受け入れることしか人間が自然に生きる方法はないのではないだろうか?相手によっては自分の価値観による反応を期待をしないこと、すなわち自分と共感できない人間、相手の考え方が想像も出来ないほど違う人間の気持ちを無理やり考えるような無駄な頑張りはやめ、力を抜いて自分の今できることだけをやればいいと思うのは私だけだろうか?

2006年6月25日 (日)

私は幸せ者

くどいが人間は俗物である。他人の評価も気になるし、職場では肩書きも気にする人間も多く、「セクハラ」や「パワハラ」が横行している会社も多いだろう。

そんな中で無意味に頑張ることに何の意味があるのかと思う。力を抜くこと、そして今の自分がどんな状態であってもそれが「自分の100%」と認識することが重要であると考えている。

ただし、身体が健康でないと健全な考えは生まれない、健全な心を持たないとゆがんだ考えが生まれる。

お坊さんですら、身体が健康でない場合には修行をしない(無意味)であるというお話も私の親友から伺った。

私にはちょうどいいタイミングで私が苦しんでいる時にその時々にあった内容のアドバイスや考え方、様々な媒体を教えてくださる方がいる。それだけでも自分は幸せものだ。

2006年6月24日 (土)

自分は生涯俗物

何度も書いているが人間は感情を持った生き物である。まだまだ足を踏み入れたばかりではあるが、「親鸞上人」は自分のことを「俗物中の俗物である。」と書いているとのことである。私はこの話しを自分の「菩提寺」の住職さんに自分の環境を長い時間、聞いていただき、そしてありがたい教えを伺った。

それに影響されて、現在「歎異抄」と「教行信証」を読んでいる。しかし内容は私レベルには理解できるレベルではない。

浄土真宗を広め、新興宗教が生まれては消えていく中、1000年以上も続いている親鸞.上人という仏教の一派のお教えが今も信じられていることをどのように考えればいいのだろうか?

私はまだまったく答えが出ないし、一生でないだろう。でも個々の人間が俗物であるということを認識することから世の中がよくなっていくことになっていくのではないだろうか?

脱線するが、宗教戦争はお互いに信じきっている唯一の正義のぶつかり合いなので、非常に根は深いと感じている。

2006年6月23日 (金)

「金(権力)ならある」と「金(権力)しかない」の違い

「金ならある。」と「金しかない。」この言葉は似て非なるものである。「金ならある。」は「自分の価値観でしか物事を判断できない自分だけの優越感」を感じ、「金しかない。」はなんか「残高に固執するみすぼらしさ」を感じる。そういう方々はお墓にはお金や権力を持っていけないことをわかっているのだろうか?

世の中は金や権力で動くものではないが、家族を守るために最低限の収入を得ないといけないと思っているのは私も同じである。

その一方で、若くしてリタイヤ生活を送る人が多いのはどうしてだろうか?きっとこの世の中の格差社会やストレスの息苦しさに耐えられなくなった、あるいは自分のやりたい道を見つけたのではないかと私には感じられる。

私も今の自分に固執することなく、こだわりを持つこともなく、事実をありのまま受け入れ、耐えられなくなったら「逃げる勇気」を持ちたいと思っている。逃げることは決して恥ずかしいことではない、逆に我慢して周囲に邪気を撒き散らす方がよっぽど恥ずかしい。

2006年6月22日 (木)

審判の心理

ちょっと古い話だが、サッカーのワールドカップの「日本vsクロアチア戦」の話を審判の心理で書いてみたい。

前半、日本はPKをとられた。奇跡的なセーブで川口はこれを押さえた。ここで審判の心理としては「平等にしようかな?」という考えが働くはずである。実際に、状況は違うもののPKは両方のチームに与えられることが多いのはその心理ではないかと思う。もちろん平等にする必要はなく、誤審をしなければいいのであるが、実際にはPKの与えられ方を見るとそういう判断が働いてしまっているような気がする。

結果に「もし」はないが、そういう審判の心理を読んで、日本がFWをドリブルでペナルティエリア内に切り込める玉田や巻を後半の最初から一気に投入したらそういうチャンスが会ったのかもしれないと私は思った。

審判も人間であり、当然間違えるのである。。。自分は「何事も間違えない、自分の言うことはすべて正しい。」と思っている人間がいたらお目にかかりたい(というか自分の会社の中には沢山いるが。)。

彼らは俗物中の俗物で「六道」における「餓鬼」や「畜生」のような存在であろう。そういう奴らの言うことに影響を受けて、自分まで邪気に染まっては、他人に伝染させてしまうだろう。自分はそういう気持ちを持たないように心がけたいと思う。

2006年6月21日 (水)

謙虚な気持ち

人間は基本的に愚かな生き物であり、おだてられるとうぬぼれる。私も人間である以上、同じだろう。しかしその「うぬぼれ」には表裏一体の「謙虚さ」が存在する。

うぬぼれるだけで自分の考え方をゆがめてしまうか、謙虚な気持ちを持ち続けることができるか、それが人間として重要なことだと思い始めている。

取り返しのつかないこと

世の中には取り返しのつかないことが存在すると思う。よく「信頼を失うことは簡単である」といわれるが、要はそういうことである。信頼を取り戻すにはどれくらいの努力が必要なのだろうか?

私には今のところ答えはない。なぜなら自分は基本的に自分以外の人間のことを理解できないからである。最近、自分のころすら理解できていないこともわかった。そういう意味では信頼回復のための努力をどんなにし続けても相手の受け取り方は自分の誠意や考えとは違うかもしれないので信頼を取り戻せる保障はない。

「うっかり発言」や「悪意に満ちた行動」とかの具体的なことにかかわらず、一生取り返しのつかないかもしれない。信頼を取り戻せたかどうかは「自分が死ぬときにその人がそばにいてくれるか、本当に自分の死を悲しんでくれるか?」それで初めてわかるのではないかと思う。

私もうっかりした一言ではあったが、取り返しのつかない一言を発してしまったことがあった。言ってしまったことはもう取り返しがつかない。しかし相手に伝わるかどうかにかかわらず信頼を回復するために精一杯のことはしたいと思う。あとは、私が死ぬときにその人がそばにいてくれることを祈るだけである。

2006年6月20日 (火)

人間観察

いまさら遅いといわれるかもしれないが、親友に教えられ「チャングムの誓い」にはまっている。毎週、欠かさずビデオに撮り、繰り返し3回は見ている。(これからも時々引用するつもり。)

第33話の中でチャングムは病気の人の病名を自分の持つ知識と患者さんの現在の症状だけから即座に診断を下した。しかし実際には「患者さんそのもののすべてを理解することによってのみ初めて診断可能な病気」であったため彼女は間違ってしまっていた。

私も同じであった。頭で考えること、知識や経験だけで判断すると、事実とは違う自分の理想(こうあるべき)という「わな」にはまる。まずは事実を理解するのであって、その事実と自分の考えることが違うことから人間の魂には憎しみや憤りや悲しみや喜びが生まれる。その感情が人間の判断を狂わせるのではないだろうか?

そういう感情を人間というものは持たされている。せめて「事実・現実をありのまま受け止める。」ことから始め、次に「人間を観察する」ことで常に軌道修正しながら行動をとっていきたいと思った。

2006年6月19日 (月)

愛することを愛すること

○○を愛している、好きである、という人は世の中にたくさんいるだろう。というか何かを愛していない人間の方が少ないのではないだろうか?

でも私はもう一歩気持ちを踏み出したい。「○○を愛している人を愛したい。」ということである。例えば、私は愛娘を愛している、そしてその娘を愛してくれているほかの人も愛したい、そういうことである。

言葉で言うことは簡単だが、実際に出来るかどうか、それはこれからの私の心がけにかかっている。

2006年6月18日 (日)

天使の言葉

続けて愛娘の話である。先日、辛い顔をしていた娘が私にかけてくれた言葉。

「パパが悲しそうな顔をしていると私も悲しい。パパが笑っていると私も笑う。」

私には世界一の医者がそばにいた。私の辛さや魂の叫びを一番感じてくれていたのは娘であった。この娘のためにも心から笑わなければと思った。

2006年6月17日 (土)

愛し君へ

私には自分の命よりも大切な愛娘がいる。毎日必ず抱きしめることを忘れない。

抱きしめた時の体温を心で感じ、同時に自分が生きる意味を感じ、どんな辛いこと、苦しいことにも耐えることが出来ている。

今、私がすべてをありのままに受け入れられているのは、娘のおかげ。。。どんなに感謝しても足りない。本当にありがとう。娘こそ私の女神様である。

でも娘が悪いことをした時には愛を込めてきちんと叱るのだがすぐに泣かれる(笑)。

2006年6月16日 (金)

頭の体操(脱線)

私は一昨日、「ヤクザ社会」に似た部署に配属になった。以下は私の「頭の体操」である。何故「似た」という言葉が入るのかと言うと、「ヤクザ社会」は組長を始め、組織が所属員を守る。そして家族も守る。だからこそ、鉄砲玉は後のことを考えずに特攻隊長になれるのであるが、うちの会社には責任を取らないし、守らない。逆に「池に落ちた犬を叩く」ように貶める。こんなことでは誰もついていかないが、まあこういう会社もあると思って笑って読み流して欲しい。

部 長:「組長」-判断材料が俺についてくるかどうかだけ。仕事が有能か無能かなどは関係ない。

次 長:「番頭」-有能な事務処理能力を持つが、残念なことにいつも各課の尻拭いをさせられている。

課長A:「若頭」-考えはほとんど間違っているのだが、でも組長の権力(虎の威)を借りて高圧的な態度で周囲を威圧して押し切る。責任転嫁、ミスを絶対に認めない。

課長B:「鉄砲玉」-武器(知恵)も持たずに事件(トラブル仕事)があると大暴走。何も考えていないので、ほとんど頓挫。尻拭いは周辺。でも本人は優秀だと思っているから笑える。

課長C:「チンピラ」-無能、その場しのぎの発言、そして大パニック。そして誰でもいいから責任転嫁。当然周囲から呆れられる。ちなみにこのブログでは「不思議ちゃん」のこと。

ちなみに私は病気から復帰したてであるが、血を流していない(外科手術のことか?)ということでチンピラが流した「仮病疑惑」まであるそうだ。やっぱり「ヤクザ社会」だあ。。。私は人間、向こうは野獣。そういう意味ではまーったく気にしないけどね。私も野獣にはなりたくないし。。。

でもうちの会社には実は親会社がある。組長も実は「親会社の組長」の虎の威を借りているだけである。今回、面白いことに親の組から異動で本家の「若頭」がやってきた。「課長A」などは本家の「若頭」だけに平身低頭するんだろうな。想像するだけで笑える。

2006年6月15日 (木)

部署や組織も人体と同じ

これは最近感じ始めたことである。ある部署の事を考えていて、その業務ライン(すなわち体)が歪んでいるために起こっている現象なのではないかと。

その他にも以前に書いた「世界一不幸な不思議ちゃん」がそこの課長であったり、その「不思議ちゃん」のえこひいきでろくな仕事もしていないのに評価されている人間がいることが大きな原因でもあるが。

ただ、それを除けば能力のある方々が責任感だけで業務量の多さに耐え、踏ん張って仕事をしているのだが、予想以上に苦しんでいて、耐えていて、結果として諦めの境地に近くなっている。その張り詰めた糸がプツっと今にでも切れそうなほど、魂の叫びが伝わってきて、自分の心まで痛くなる。また、不思議ちゃんは部下にも責任転嫁をするので無理もないが、不思議ちゃんや組織を憎んでしまって、頑張っているが、「負のエネルギー」に満ちている。

負のエネルギーは自分の身心を消耗させるだけでなく、自分の考えも歪ませてしまう。これはその人だけではなく考え方は違えど、残念なことに普通に起こってしまう。

どうやったら治るのだろうか?

仏教における身心と同じで、体が健康であること、すなわち部署や組織を邪気に満ちないように業務ラインを整理すること、邪気の原因である「不思議ちゃん」や「えこひいき」を排除して、負のエネルギーが生まれないような環境を整備し、組織を健康な体勢にすること。

そのことで健康な体から生まれるのと同じいいモチベーションやプラスのエネルギーが生まれ、気持ちよく良い仕事ができるのではないかと思う。

実際はどうなのだろうか?もう無理レベルまで来ているのだろうか?対症療法で利かなければ人体と同じで根本治療をするしかないと思う。

そういうことを考えるのが経営者の務めなんだけど。。。

2006年6月14日 (水)

明日

私に「サファリパーク」というか「ヤクザ社会」への強要が執行される。もちろん権力の亡者には逆らえないからであり、自分にそれに対抗する健康という体のエネルギーも心のエネルギーも存在しない。こんな状況では、あるがまま、流されるまま、色々浮かぶがこういう考えで漂流するしか私には手段が無い。

しかしその一方で少ないながらも信頼してくれている方々がいる。その信頼を勘違いしないように自分でも注意しないといけないが、自分のあるがままの姿と心の内をすべてさらけ出して、相手がどう感じてくれるか、それだけ。

自分の「あるがままの心」と「こだわりのなさ」を見ていただき、居場所が悪ければ遠慮なく去っていただいても構わない。それはその人が感じることであって自分が何かを言うべきことでもなく判断すべきことでもない。居心地がよければそれで友人関係や仕事関係でもお付き合いを続けていただければいいし、そういう人たちが集まれば負のエネルギーで邪心(嘘で相手を貶める、責任回避、悪口、等)が溜まることも少なくなると思う。

もちろん自分にうそはつけないという自分の考え方の根本もあるし、自分の健康すら取り戻せていない状況でバランスを確保することは難しいが、それもどうなるかわからないこれからの未来の出来事を気にしても仕方がない。今、何かを考えてもなるようにしかならない。

ただ、自分の考えを曲げないため、お釈迦様の教えを守るため、そして家族を守るため、健康回復を最優先しなければならない。健康な体でないと良い考えは浮かばない。明日からは「法と道理」や「真の思いやり」を常に忘れないように、両手にバランスを取るための手数珠をつけることにした。

しかし、実は、自分に嘘はつけないため、こんなに貶められても「職責」に応じた責任感を「何故か」感じていて、相手の期待とかそういう問題でなく、自分の修行の心構えとして生まれてきてしまっている。そのため復帰早々無理をしすぎて、体が悲鳴をあげている自分がいる。

まだまだ私には割り切れない。修練が足りないんだなあと痛感した。

2006年6月13日 (火)

ソレラシステム

ソレラシステムとはスペインのシェリー酒(酒精強化ワイン)を造るときの独特の方法である。簡単にいうと年代の違う元のワインを継ぎ足して、1本の複雑な味わいを作り出す方法である。何かに似ている。何だろう??

組織における業務の継続性と同じではないか?きちんと古い年代から若い年代に仕事を継続して引継ぎ、情報共有をしていく。その中で効率的な方法を考え、業務改革をしていく。

こうやって組織に必要な人材が育成されていくのではないかと思う。ちなみに私の所属する会社ではそんなことはなんも考えていない。私は14年間勤務しているが、その間に9部署異動し、課長は15人も代わった。最短は6か月で課長が代わった。部下の人数は数え切れない。ただ、半年や1年で教えては異動され、教えては異動され、を繰り返されてきた。教えた人間が将来、指導したことを生かすのであれば意味があるが、職種が違うため、生涯同じ仕事をすることはないだろう。

こんなことで組織が上手くまわるはずが無い。ほとんどの人間がうわっつらだけしか理解しておらず、特に新人に近い若手職員にその傾向が強い。もっと物事の本質を理解してほしいものだと心から思う。

ソレラシステムはシェリー酒に複雑な味わいを作り出すために考えられたスペインの知恵である。そういう知恵を仕事に生かす連想も強ち間違っているとは思えない。

2006年6月12日 (月)

信頼を失うこと

よく言われる言葉だが「信頼は一瞬で失うが取り戻すのは難しい。」というのがある。「信頼」という無形なもの、最近では権力や金が信頼だと思っている人間も多く、非常に軽視されやすい。でもこれが「人間の心」においては大きな意味を持つことを分かっている方がどれだけいるだろうか?

実際に信頼は取り戻せるものなのだろうか?私にも結論は出ていないが、今の段階では、「悪意の有無にかかわらず失うのは簡単」だろうと思う。

逆に完全に取り戻すことは無理で、自分が死ぬとき、すなわち生涯を終える時に「どれくらい取り戻せたか?」がわかるのではないかと思っている。

2006年6月11日 (日)

魂の重さ

人が亡くなるときには体重が若干(多い人で数百グラム)軽くなるということを聞いたことがある。そういう実験も見た記憶もある。きっとそれは「魂の重さ」なのだろう。アインシュタインの相対性理論の有名な公式「E=mc2」によると300グラムの重さから取り出せるエネルギーは相当な大きさであり、詳しく計算してはいないが、太陽が発しているエネルギーの数秒間くらいのものは十分にあると思う。人の魂にはこれだけのエネルギーが詰まっている。このエネルギーを負(憎しみなど)に使って消耗するか、正に考えエネルギーを蓄積するか、それが修行の心構えだと思う。私は負には使いたくはない、と思う。

2006年6月10日 (土)

アンナ・カレリーナと赤ちゃん菩薩

アンナ・カレリーナ、彼女はトルストイの小説の主人公である。基本的には恋愛小説なのだが、私は冒頭の一文が内容とは関係なく頭から離れられない。

「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである。」

私は人間は波動の生き物であると思う。身心の波が揺れ動く結果が感情や行動で表現されるものであると。基本的に人間という生き物は自分が不幸になると他人の不幸が見えなくなる。もちろん冒頭の文章のように不幸の形もみんな違う。

ありきたりな表現ではあるが、人間の数だけ悩みがあり、不幸がある。本人にしかわからない苦しみもある。私の身近にいるが、外見では判断できない脳出血の後遺症のような肉体的・精神的な苦しみもあれば、逆に大したことはないと他人が思うようなことであってもその人間の価値観の中だけでの苦しみもある。他人がどう思っているかにかかわらず、本人が不幸だと思えばそれはその人にとっては不幸なのであり、不幸じゃなければ不幸じゃないのである。

その本人にしかわからない苦しみを、辛さを、いかにして他人(「自分以外の人」という意味)である自分が理解できるか、本当に相手の立場で考えることができるか、それに「真の思いやり」が隠されていると思う。

私はまだ人間という俗物であり、「許せない」と思うこともある。また自分を優先して考えてしまうこともある。でも憎しみには負のエネルギーしか生まれない。それは自分の身心の修行にとって邪魔なものであり、結果として魂のエネルギーが減るだけでなく、周辺に邪気や憎しみ、怨み、そねみ、などが伝染していくことことになる。これが果たしていいことなのだろうか?

私はまだ「赤ちゃん菩薩(悟りを求める者)」であるからどこまでできるかわからない。でもそれが悟りの途につながると信じて何も見返りを求めることなく、そして一番自分が辛い時にこそ、自然にさりげなく周りの方々に手を差し伸べてあげられればいいなと思う。

2006年6月 9日 (金)

新しいバランス主義

以前、お釈迦様の最後の言葉の時に自分の物事の考え方が「物事の本質を見極めた正しい理想主義」と「理論とルール」のバランスで判断することが多いと書いた。しかし、仕事に関してはいろんなものを失ったことによって、これからは新しいバランス主義をとるしかなくなった。

それは「真の思いやりの心」と「道理(論理)や法(ルール)」をバランスさせて判断することである。この考えに行き着いた過程に関しては会社の環境等の変化など色々あったが、現在ではこの方法が自分の修行にとって一番いい方法ではないかと悩みぬいた結果であると同時に自分の人格が崩壊しないためにはこれしかないと判断した。

本当にこの考えを貫き通せるかはまだわからないが、健康を取り戻すまでは自分の魂のエネルギー不足のため、この方法を選ぶしかない。

2006年6月 8日 (木)

「勘繰る」から「下衆」になる。

人間とは不思議なものだと思う。私の会社には「自分が世界一私が不幸な人間だ。」と恥ずかしげもなく発言できる不思議な人がいる。こういう言葉が出てくること自体、私には理解不能なのだが、そういう考え方だから「どんな汚く醜い嘘をついても自分より不幸な人間を生産するために他人を貶める。そうすれば自分は世界で二番目の不幸に昇格(?)できると信じているのだろう。そのためなら自分は何をやっても許されると考え、他人を貶める。でもその「不思議ちゃん」は何人もの他人を貶めても結果的に自分が世界一不幸な考えは変わっていない。

先日、ある方に「下衆の勘繰り」という言葉は逆だ、「下衆だから勘繰る。」のではなく、「勘繰る意識」が人間が「下衆」に落ちていくんだと言われた。また同時に、一度「下衆」になってしまったら人間という愚かな生き物は「勘繰り続けるんだ。」ということも教わった。

「権力」も同じだ。常に貶められる恐怖と闘っているから相手を無理に押さえつけようとする。そして権力は最後に壊れていく。これも同じような悪循環だと思う。

私にはこの言葉の本当の中身がまだ理解できていないが、人間の心の本質に迫る話であることは感じる。

神様から授かった命。きっと意味はあると思う。ただ今の私には生き続けることが幸せかどうかはまだわからない。でも少なくとも未だに世界中で食糧不足、医薬品不足や様々な理由でやむを得ず助けられない方々が沢山いることを知っているので、「自分が世界一不幸だ」なんてことは想像もしない。

2006年6月 7日 (水)

心のバリアフリー

私はブログを書き始めた時はある内臓を壊して病気休暇中であった。体の調子も少しずつよくなってきた兆候がみえ、早く仕事復帰をするための「頭のリハビリ」だと思って、この日記を書き始めた。(だいぶ脱線しているが。。。)

今まで私的なことなので書かなかったが、私の一番身近な存在である配偶者が4年少し前に20代前半で「脳卒中」で倒れ、体の半分の感覚がないだけでなく、しびれや痛み(医学用語では「視床性疼痛」という)などによって、常に健常人では我慢できないほどの肉体的にも精神的にも苦労する人生を強いられている。心の中も相当苦しんでいる。しかし、私は同じ病気にはなっていないため、本当の意味での配偶者の「辛さや苦痛、我慢」などが理解できているとは言いがたい状況が続いている。非常にもどかしいが本当の辛さを理解できない力不足を感じ、理解できない自分が情けない。

私の配偶者と前後して、会社でも「真面目さと責任感と気力」でぼろぼろになるまで仕事をした結果、似た環境になった方がいる。その方が先日、会社に顔を見せに来てくれるという話を聞いた。少し話すことができると思い、その方に会ったらどんな話をしたらいいのかを数日間悩んだ。私にはすぐそばに同じような環境にある配偶者がいるので、外見的な状況だけであれば理解することはできる。

老人や障害を持っている方の中にもいろんな方がいることを配偶者から聞いている。ひたすら「自分が弱者」であることを強調して「同情」を買う、「当然の権利」として様々なことを自分から要求する、そういう方々もいることは事実のようである。

閑話休題。その方と会った時、私の病気など比較の対象にもならない病状でありながら、その方の最初の一言が、私の名前を呼んで「○○、大丈夫か?」の一言であった。その言葉を聞いて、私は自分の言葉が一切、出なくなってしまった。ただ、涙を見られたくないために下を向いて「両手でその方の手を握り締めることしかできなかった。」

その後、私はしばらく泣き続けた。これが「清廉な心を持った真の思いやり」だと思うと、私はいったい何を見てきたのだろう。そして自分の心の器の小ささを痛感し、私もこの気持ちを心の底から持ちたいと思った。いや持っていたつもりであっただけで、本当は持っていなかったのだ。大切なのは自分との比較ではない、本当に相手の立場で考え、その心を理解する気持ちであると。。。

しかし、同時に本当にその方が会社に責任感を持って復帰するために必要なことは「同情や自己満足」ではないと感じていた。それが自分の心の中に生まれた「心のバリアフリー」という言葉であった。

例えば、その方が書類を運んだり、コピーなどを自分でとろうとした時、きっと周囲は気を遣って手伝うと思う。それももちろん優しさだ。でもその方の立場に立って考えれば「また他の人に迷惑をかけてしまった。」と考えるかもしれない。一人一人の違った考え方を理解し、相手の気持ちを最優先に考え、気を遣わせないようにさりげなく、そして自己満足でなく行動すること。それが「心のバリアフリー」の意味である。

建物やコピー機などに工夫を加え、環境的にバリアフリーだといって満足する役所や会社などの組織も多いが、整えるのは当たり前のことであり、世の中に不足しているのはこの「心のバリアフリー」ではないだろうか?

また一つ、配偶者とその方に「大切なもの」を教わった。本当に貴重な心の財産となったと同時に、その「心のバリアフリー」を配偶者から始め、会社や社会だけではなく人間全体にいきわたらせることができたらきっと心の豊かな社会になっていくと信じたい。

2006年6月 4日 (日)

「不可能を可能にする何か」は必要か?

昨日、私は自分の存在の一部とお別れしたと書いた。その「あるもの」は私の人生にとって過去からずっと非常に大切にしていたものであるが、自分だけの価値観だろうと思う。他の方からすると「何でそんなにこだわるの?」と思われるかもしれない。私にとってはそれは「不可能を可能にする何か」であり、それが私の心の中にあれば自分の限界点を超えても倒れるまで踏ん張れるという人生を送ってきた。

人はみんな考え方も環境も妥協点も何もかも違うが、他の方にも私と似たようなものを持っていると思う。私の場合には今回お別れをしてしまったため、また「何か」を探す心の旅が必要となった(と思った。)。

そんな今日、家にあったある絵本をぼーっと眺めてはっとした。

自分に足りない部分を探して旅をする主人公が、色んなかけらをはめてみるがなかなか合うものが見付からない。ぴったり合うものはないのかと諦めていた時、ぴったりのかけらを見つけ、自分が完成された。でも完成して初めて「不完全の方がよかった」と気がついた。こんな感じの話であった。見終わって涙が止まらなかった。

私にはまだ何も見えていないが、「不可能を可能にする何か」を改めて探す必要はないのかもしれない。お別れした「あるもの」も戻ってこなくてもいいのかもしれない。不完全のままが一番なのかもしれない。

人はみんな人生観や価値観が違うという観点で考えることができるようになれば、別の見方もできる可能性があるかもしれないとだけ思えるようになりたい。

2006年6月 3日 (土)

存在の一部の命日

昨日、自分の存在の一部である「あるもの」が心の中から出て行ってしまった。いや、他のことを守るため、お世話になっている方にこれ以上の迷惑を掛けないため、私が自らお別れをした。

でもお別れをした現実と今後の自分の環境をすべてあるがまま受け入れられたとき、きっと自分の魂が悟りに一歩でも近づいていると信じることにした。お釈迦様が私に与えてくださった修行と思うことにした。

自分の心の重要な支えとして存在していた「あるもの」さん、さようなら。手放してしまって本当にごめんなさい。きっとまたいつか大きくなって私の心に帰って来てね。本当に待ってます。

今日はこれだけしか書けない・・・

2006年6月 2日 (金)

藤原経清の死に様

急遽、藤原経清の死に様に関しても、書いておきたいことができた。ここでも「炎立つ」という高橋克彦氏の時代小説を引用させていただくが、源義家につかまった経清は彼の父である源頼義の前で彼と刺し違えようとした。しかし、経清は義家が彼の大切な2名の部下の髷を預かってくれた男気に感謝し、素直に切られる覚悟をした。源頼義と源義家の親子は経清を武士の鏡と思っていたので、経清の義兄弟である安部貞任を殺し、「安倍氏」が事実上滅んだ今となっては、陸奥に脅威はなく、できれば自分に再度仕えてほしいと思い、一度は見限られた経清の命を救おうとした。

しかし経清は一言、「(性根の腐った)獣に仕えては武士の名折れである。」と発し、潔く首をはねられた。「国家の品格」という本の影響で「武士道」という言葉が流行っている(?)ご時世ではあるが、現代にも様々な死に様があると私は思っている。

それぞれの死に様に関しては私も彼と同く潔くしたいと思っている。

支えるものは気持ち

前々回と同じくバーテンダーの生き方について書いてみたい。今回も本の抜粋なので、問題があればご指摘ください。前回と同じ「バーテンダーの第4巻」です。

主人公の到達点は「お客様一人一人に魂を救う最後の一杯と呼ばれる「神のグラス」を提供する。」ことである。

しかし彼の師匠であるバーテンダーは毎日「魂の疲れ切った」お客様を受け入れるために店を開け、結果的に過労による病気で倒れた。そのことが主人公にとって心のわだかまりとなって残っている。こんなに人間の魂を助けたバーテンダー(自分の師匠)が病気で倒れたことで若い医者に「おじいちゃん。」と名前でなく「認知症の方」と同じ意識で呼ばれ、過去を否定されたものと考えられてしまったことが気持ちとして許せない。

そこで先輩のバーテンダーは主人公に新しい生き方を教える。「お客さんは流れ着いてきた旅人と同じだ。バーテンダーという人間は覚えていない。でもその場所でバーテンダーに出してもらった、魂を助けられた一杯を忘れない。それでいいんだ。人間を覚えてもらうことではなく「魂の一杯。」を覚えていただけていればそれでいい。我々の使命とはそういうものだ。だから師匠も自分もバーテンダーとしての生き方を選んだ。それもバーテンダーの生き方の一つだ。」という台詞である。最後にその先輩はこう付け加える。「師匠も自分も後悔なんかしていない。」と。

私はこの生き方に共感すると同時に矛盾も感じる。それはまだまだ自分に人生の修行、悟りが得られていないためである。

人間はそれぞれ考え方が違う。理不尽とも思える辛く、悲しく、厳しい現実が突きつけられることもある。自分も現在その渦中にいる。もちろん悟れていないし、私には人間の醜さを受け止められる度量も懐の深さもない。

ただ、こういう気持ちだけは忘れずに、常に「他の人の気持ち」を考えること、バーテンダーではないが「自分なりの方法で自分以外(会社も含め)を助けること、救うこと。」を自分の生涯の目標として生きて行きたい。

その結果、相手に誠意が伝わらず、貶められ、どんな厳しい環境に置かれてもその気持ちは変りたくはない。これは私の偽りないこころである。

しかし、人間は弱いものである。私の細い心も折れそうになっている。特に精神的に非常に辛い状況である。そういうときには自分はどうしたらいいのか結論は未だに出ていないし、一生でないかもしれない。。。

人間とはいったいどんな存在なのであろうか?答えを出すのにどれくらいの年数がかかるのだろうか?それとも一生かかってもできないのかもしれない。でもそれはそれで仕方のないことだと思う。

2006年6月 1日 (木)

お釈迦様の最後の言葉

私は最近「お釈迦様の最後の言葉」に出会った。今日、思い出したので僭越ながら取り上げさせていただくことにする。

「私は道理と法の領域だけを歩んできた。これ以外に人の道は存在しない。人間の本当の道(法と道理)を追求することが人間の努めである。この世に常なるものは存在しない。だからこそその理を悟ることだ。そう思って毎日を生きることができれば有意義な日々を送ることができる。」

またアーナンダという弟子に最後の言葉を聞かれた時にも「自らを拠りどころとし、法を拠りどころとせよ、それ以外を拠りどころとしてはいけない。」とお答えになったそうです。

私はもともと物事の考え方の基準を「物事の本質を見極めた正しい理想主義」と「道理(理論)と法(ルール)による現実主義」とのバランスで判断することが非常に多い。だから日本のアホな法律の矛盾を感じるのだと思う(また脱線した)。お釈迦様のこの言葉を読み、権力に媚びずに自分の考え方を貫く覚悟を決めているが、実際に世の中には暴君と呼ばれる歪んだ権力者が数多く存在し、権力を謳歌している。自分もその権力に振り回され、悩み、苦しむことも多い。

お釈迦様は権力などどいう不浄なもの自体を否定し、権力はいつか崩壊することを知っていただろうが、残念ながら私にはまったくその気配さえ感じることができない。

お釈迦様の域に達することは生涯無理なことだと納得しているが、せめて少しでも早く「権力は崩壊するんだ。」ということを感じられるようになりたいと心から思う。お釈迦様の言葉を信じ、現在、自分の周囲で起きている様々な不条理な毎日が自分の精神修行のための有意義な日々であることを信じたい。

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