私はブログを書き始めた時はある内臓を壊して病気休暇中であった。体の調子も少しずつよくなってきた兆候がみえ、早く仕事復帰をするための「頭のリハビリ」だと思って、この日記を書き始めた。(だいぶ脱線しているが。。。)
今まで私的なことなので書かなかったが、私の一番身近な存在である配偶者が4年少し前に20代前半で「脳卒中」で倒れ、体の半分の感覚がないだけでなく、しびれや痛み(医学用語では「視床性疼痛」という)などによって、常に健常人では我慢できないほどの肉体的にも精神的にも苦労する人生を強いられている。心の中も相当苦しんでいる。しかし、私は同じ病気にはなっていないため、本当の意味での配偶者の「辛さや苦痛、我慢」などが理解できているとは言いがたい状況が続いている。非常にもどかしいが本当の辛さを理解できない力不足を感じ、理解できない自分が情けない。
私の配偶者と前後して、会社でも「真面目さと責任感と気力」でぼろぼろになるまで仕事をした結果、似た環境になった方がいる。その方が先日、会社に顔を見せに来てくれるという話を聞いた。少し話すことができると思い、その方に会ったらどんな話をしたらいいのかを数日間悩んだ。私にはすぐそばに同じような環境にある配偶者がいるので、外見的な状況だけであれば理解することはできる。
老人や障害を持っている方の中にもいろんな方がいることを配偶者から聞いている。ひたすら「自分が弱者」であることを強調して「同情」を買う、「当然の権利」として様々なことを自分から要求する、そういう方々もいることは事実のようである。
閑話休題。その方と会った時、私の病気など比較の対象にもならない病状でありながら、その方の最初の一言が、私の名前を呼んで「○○、大丈夫か?」の一言であった。その言葉を聞いて、私は自分の言葉が一切、出なくなってしまった。ただ、涙を見られたくないために下を向いて「両手でその方の手を握り締めることしかできなかった。」
その後、私はしばらく泣き続けた。これが「清廉な心を持った真の思いやり」だと思うと、私はいったい何を見てきたのだろう。そして自分の心の器の小ささを痛感し、私もこの気持ちを心の底から持ちたいと思った。いや持っていたつもりであっただけで、本当は持っていなかったのだ。大切なのは自分との比較ではない、本当に相手の立場で考え、その心を理解する気持ちであると。。。
しかし、同時に本当にその方が会社に責任感を持って復帰するために必要なことは「同情や自己満足」ではないと感じていた。それが自分の心の中に生まれた「心のバリアフリー」という言葉であった。
例えば、その方が書類を運んだり、コピーなどを自分でとろうとした時、きっと周囲は気を遣って手伝うと思う。それももちろん優しさだ。でもその方の立場に立って考えれば「また他の人に迷惑をかけてしまった。」と考えるかもしれない。一人一人の違った考え方を理解し、相手の気持ちを最優先に考え、気を遣わせないようにさりげなく、そして自己満足でなく行動すること。それが「心のバリアフリー」の意味である。
建物やコピー機などに工夫を加え、環境的にバリアフリーだといって満足する役所や会社などの組織も多いが、整えるのは当たり前のことであり、世の中に不足しているのはこの「心のバリアフリー」ではないだろうか?
また一つ、配偶者とその方に「大切なもの」を教わった。本当に貴重な心の財産となったと同時に、その「心のバリアフリー」を配偶者から始め、会社や社会だけではなく人間全体にいきわたらせることができたらきっと心の豊かな社会になっていくと信じたい。
最近のコメント