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2006年7月31日 (月)

目に見えないもの

先日の「真空(空)」の続きであるが、日本で初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の本の題名である。

博士は「中間子」という陽子と中間子を結ぶ力が存在することを予言した。そして実際に「高エネルギー加速器」を使ってその中間子が発見された。

博士の本の中にこのことを証明する以下のような言葉がある。

「現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となる。」

現実から物事の対策を始めることも大切だが、やはり理想や真実を追究することがどれほど大切かを思い知らされる言葉である。

2006年7月30日 (日)

使い捨て

今日は落合恵子の「唇の飢餓」の言葉を紹介するだけで終わりたい。

「使い捨てされる前に、捨てるものは自分から捨ててやる。」

自分の気持ちが揺れている。今週は会社の昼休みに菩提寺の宗派である「浄土真宗大谷派」のお経である「正信念仏げ」を大きな声で30分かけて2度音読した。その日の午後は少しだけ心が落ち着いた。

2006年7月29日 (土)

真面目な失敗

以前、自分の所属する会社では、「逆三無主義」が横行しているということを書いた。何もしない方が貶められないし、責任も押し付けられないし、摩擦も起きない。でもそれは会社が腐敗している証拠である。自分で考え、努力し、行動し、そして失敗したことは決して恥ではないと思う。アメリカで初めて自動車を作ったヘンリー・フォードも以下のように言っている。

「将来を恐れるものは失敗を恐れておのれの活動を制限する。しかし、失敗は成長に続く唯一の機会である。まじめな失敗は、なんら恥ではない。失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む。」

きっとこれからも私は数え切れないほど失敗を繰り返すだろう。そして何度も同じ裏切りを受け、自分に責任転嫁されることを繰り返されるだろう。でも自分では「恥辱」を持たないように失敗を恐れないように物事すべてに努力して生きて行きたいと思う。

2006年7月28日 (金)

平常心是道

今日、会社の先輩にこの言葉の本当の意味を教わった気がする。言葉自体は知ってはいたが、自分の力量不足で理解できないでいた言葉であった。

今までの私は「無理して平常心を保つようにする努力をすることが道(苦労というかいばらの道、すなわち心の修行)である。だから平常心を常に保てるように心の余裕を持てるといいんだ。」というように思っていた。

その先輩は禅宗の住職さんの法話を聞いて私に教えてくださったのだが、それが「物理学」を例にしたお話だったようで、私の専門分野だったため、なんかもやもやしていた意味が少しだけ理解できたような気がする。その解釈は以下の通りである。

「真空(仏教でいう「空」)」は実は何もないわけでなく、電子や陽電子などの反対の性質をもつ粒子がぶつかりエネルギーを発散したり、逆にエネルギーから物質が生まれたりを繰り返している。ビッグバン理論というのも実は、この物質と反物質のぶつかりあいの中で、「ほんの少しだけ」物質が残ったところから宇宙が生まれた。真空でも「物質と反物質が相互作用をしている、すなわち生死を繰り返している。「生死」の中での瞬間瞬間での意識の流れが生まれたり死んだりしている。だからこそ、その瞬間の意識(今)を大切にしないとすぐに消えてしまう、だから今を精一杯生きること。」

さて自分はこういう考え方ですべての物事を「空」と思える時が来るのであろうか?欲望の塊のような「修羅、餓鬼、畜生、地獄」よりは人間に近いとは自分では思っているが、この心を持ち続けることが必要なんだ、と改めて実感した。

今週の初めにも書いたが、私にはこういうことを教えてくれる人がいる。それだけで幸せである。

2006年7月27日 (木)

マルクス・アウレリウス・アントニウス

マルクス・アウレリウス・アントニウスの「自省録」を読んだ。「自省録」は彼の日々の思索と哲学を記した図書である。百科事典によると2世紀のローマ帝国の皇帝で「五賢帝」の一人であり、「折衷主義」の皇帝及び哲学者である。

「自省録」の中に心を打たれる言葉があった。それは以下のような言葉であった。

「このキュウリが苦い?それであれば捨てればよい。道の中にいばらの藪がある?避けて通ればいい。それで充分だ。」

逃げることは恥ではない、自分から見限り、避ければいいのだと思った。

2006年7月26日 (水)

頼りにしている人

我々は頼りにしている方をお持ちだろうか?

藤沢周平の「寒い灯」に「この世の中に自分のような人間を頼りにしている人がいるということは素晴らしいことではないだろうか?」という一文がある。

私は頼りにしている人がやっと日本に戻ってきてくれた。ここ数日間特に、諦めの気持ちが強くなっていたが、彼の顔を見て、もう少し頑張ってみようかと思った。

2006年7月25日 (火)

無駄な努力

世の中には努力しても無駄なことが沢山あると思う。どんなに知恵を絞る努力をしても、権力には勝てないし、価値観や考えが違えば通じない。そして徒労に終わり、疲労感のみが残るだけである。でも自分は知恵を絞ることだけは自分の本能としてやめられないようだ。

幸田露伴の言葉に「努力より他に我々の未来をよくするものはない。また努力より他に過去を美しくするものはない。」というものがある。

現実を直視し、それに対する対応や方策を考えても相手が理解してもらえなければ、そして誤解した上で、責任転嫁などをされてはまったく正論など通じない。どんなに知恵を絞っても「無駄な努力」になってしまっては、組織をよくすることではなく、自分の修行のため、過去を美しくするための「無駄な努力」としか考えるしかないのだろうか?

2006年7月24日 (月)

理想は現実からだと思うのだが・・・

ほとんどの人が理想と現実は異なっていることだろう。その理由として私は以下の発言を取り上げる。谷崎潤一郎の言葉である。

「我という人の心はただひとり われより他に知る人はなし」

自分の心は自分にしかわからない。でも共感は出来るし、相手を思い遣ることも出来る。でも何度も書いているが世の中には「現実」からスタートできない人が多すぎる。自分なりの理想は誰にでもあると思うが、スタートラインは現実であることに変わりはない。そこから「未来をどうやって作っていくか?」ではないだろうか。

相手を責めている時間などないし、人間には誰しも間違いはあるものであるということを理解することから理想への道が始まるのではないかと思う。

例えばミスした相手を責める、謝らせる、そんなことをしたことでその人は満足するのだろうか?謝らせてもミスが起きた現実は変わらない。お互いに憎しみや憤りが生まれるだけだ。少なくとも私はそんなことをしようとも思わない。だからこそ相手に説明してわかってもらえなかったら、自分の力量不足か、相手には自分の考えを理解してもらえなかった、と考えるようにしている。

今は自分の力量不足が甚だしく、現実からスタートした自分の理想からどんどん遠ざかっている。疲れた。ほんとに身心ともに疲れた。もう限界だ。どんな言葉も悪意に取られてしまう。今日は自分の能力を生かす場所はここではないと確信した日であった。

2006年7月23日 (日)

会社内の印象深い人(その1)

今日は私の会社の印象深い人(その1)について語りたいと思う。サファリパークのような場所なので、書く人間には事欠かない。ただ、私は仕事をするにはその人間のことを良く知らないといけない、という前提があるので他の人とは視点が違うのかもしれない。

ある時の上司との会話である。状況はその日の夜から深夜にかけて資料を作る指示が来るので「担当の部長も会社で待機している。」という状況である。予定通り夜の10時頃に発注が来た。ところがその部長、帰ってしまっていた。その資料は来年度からその部長が中心となって行う新規事業で、その詳細に関しては残された中ではその部長しか知らない。

私:課長、A部長なんですけど待機をお願いしていましたが帰宅してしまいました。仕事上の責任感のない方ですね。さて、どうしましょうか?

課長:そんなことないよ、あの人、いい人だよ。

私:はあ?いや課長、私はA部長の人格のことを何も言っていません。自分の新規事業が出来るかどうかの瀬戸際に約束を破って帰ってしまうという(仕事上の)責任感のない方です、という意味で言ったんですが?

課長:だから、そんなことないって。あの人はいい人なんだから。

私:・・・・・・・・・・・・・・・・。

もう会話する気持ちも起こらず、徹夜で素人の私が資料を探し回って概略だけの体裁を整えたことは言うまでもない。その時になんとなく、この上司は「いい人か悪い人か?」の区別しか価値判断の基準がない視野の狭い人だと思った。さらに、上記のことを確信した発言が後日にあった。それは以下のような言葉であった。

「どうしても苦手な人がいる。その人のいいところが見つけられないんだ。それが見つかれば100%好きになれるのに。」(私の心理:いきなり0%から100%か、おいおい、と正直思った。)

今でも良く分からない人ではあるが、視野の狭さと判断基準は変わっていない。しかし、こういう人の良いところを見つけようとするところだけは見習わないといけないと思う。

2006年7月22日 (土)

言葉の重さ

金曜日にサッカー日本代表監督にオシム氏が晴れて決定した。私も「オシム語録」を読んで含蓄の深さや行間の幅広さに感動し、親友に勧められて一気に読んでしまった。それまではまったくオシム氏のすごさをまったく知らなかった。またオシム氏は言葉の重さも教えてくれた。戦争すら引き起こすことが可能な言葉は慎重に発しなければならないことを痛感した。なんとなく思いついた語録を一つだけ紹介し、その語録に対する私の心のねじれも紹介する(笑)。

2003年4月 故障者が続いたチーム状況について社長に発言した言葉である。

「肉離れ?ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出す時に肉離れしますか?準備が足りないのです。私は現役時代、一度も起こしたことがない。」

この言葉には、選手の自覚が足りない、走る体力が足りない、頭を使って効率的に走らない、その他にもこの表現に詰まっていると思う。足りない部分は私のサッカー知識と想像力不足だと思う。

オシム氏は現在の戦力に決して文句も言わないし、補充の希望も出さないし、常にジェフにいる選手の成長を信じていた。もちろん同じ練習もしないし、頭を使って選手を育てた。だから今のジェフの強さがあるのだと思う。もの(選手)を欲しがらないすごさは感動的である。

記者会見でも「日本は他の国の真似をしないこと、日本人の利点を生かし、「日本化」することが大切。」というまたまた含蓄のある言葉を発してくれた。これはサッカーだけではなく、「日本の品格」や「日本人の道」にも共通すると私は思った。

中東情勢が悪化する中、無意味な世界一周卒業旅行に出かけ、砂漠で「ラクダに乗って楽だ。」とバカな発言をし失笑を買い、プレスリーの真似をしてはしゃぎ、ブッシュにたしなめられるどこかの国の総理大臣に聞かせてあげたい。

閑話休題。1990年、旧ユーゴスラビアの監督としてワールドカップで各連邦国の首脳(ユーゴは当時、民族紛争が耐えない7つの連邦国だった。)から「自分の国の選手を使え。」と圧力を受けていたそうだ。

その時の判断が、本選の初戦という大切な試合にもかかわらず(しかも相手は強豪西ドイツ)、各国首脳の言いなりになってバランスの欠けたチームでわざと望み、予定通りの大敗(1-4)。あんたたちの言うことを聞くとこういうことになることを証明したわけである。

それからは周囲を黙らせ、自分の思い通りのバランスのある布陣で臨み予選を突破した上にベスト8。やろうと考えても実践できることがすごいとしか言いようがない。

しかし、最後に私の心のねじれ(?)を紹介しないと終われない(笑)。本当に野うさぎは肉離れしないのだろうか?本当は肉離れをおこしてライオンに食われてしまった野うさぎがいるのを我々が知らないだけなのではないだろうか?野うさぎの生態を知らない私にはなんとも言えない。でも決してオシム氏を否定しているわけではなく、行間の広さには感動を覚える。

でも、自分もこういう言葉で語れるとしたら、語ってみたい欲望がある。会社では今でも浮いているが理解できない人間達からはさらに浮くんだろうな(笑)。

2006年7月21日 (金)

謝ることって難しいの?

今日、「報道ステーション」を見ていてふと思った。「年金手帳が13枚ある人がいて未納期間がある結果になってしまっている。」という内容だったと思う。社会保険庁が前歴を調べもしないで退職時などに新しい年金手帳をどんどん作ってしまったことが原因らしいが、年金手帳の整合性をとることなく未納期間があるから払えない、と社会保険庁は言うばかりである。

私の会社もお役所系統の考え方が強く、責任転嫁はしても自分の間違いは絶対に認めないし、謝らない人が非常に多い。自分が間違ったことに対して謝ることってそんなに難しいことなのだろうか?人間なんだから誰にでもミスはあるし、問題なのはミスした後にどのように相手に納得してもらえるように誠意を尽くすことではないだろうか?

脱線するが、司会の古館伊地郎が画面に13枚の年金手帳を見せながら「こういう事態をどう思うか?」と聞いていたが、逆にこれにも違和感があった。意図はわかる。社会保険庁はこういうずさんなことをしているってイメージの象徴として演出したのだと。でも私には「ふーん、1人で13枚の年金手帳を持っている人がいるんだという事実がある。」ということしか感じなかった。でももちろんそれだけで終わらせてはいけない。事実を把握したのだからこそ「社会保険庁はまずは謝ってきちんと事実を確認し、国民に対して誠実な対応をすることが必要。」と考えるべきなのである。

ちなみに余談だが、未だに各地方の社会保険事務所は「アイウエオ」でも「ABC」でもなく「いろはにほへと」で順番を管理しているという噂を聞いたことがある。事実だったら数十年前から何も改善をしていないように思えて怖い(笑)。

2006年7月20日 (木)

ヘミングウェイの言葉(その1)

代表的な作品であるが、「誰がために鐘は鳴る。」の一節に以下のような言葉がある。

「人間の人間たる価値は、敗北に直面したときにいかに振舞うかにかかっている。敗北とは屈服ではない。」

根回し文化の正反対の言葉だと思う。日本人の気質なのか、会議でも黙っている人間が多く、議論を嫌う。別に発言を否定されても屈服ではないと思う。ただ、自分に知識が足りなかったためにその議論に敗北しただけである。いや、実際には敗北もしていない。自分の考えが浅かっただけであり、人格が否定されたわけじゃない。

それなのに、何故か日本人は人格まで否定されたと思い、その議論相手を感情的に憎むという心理状況になる人間が多い。

私は公私は分ける。会社の親友でも考えがかみ合わなければ議論するし、落ち着きどころに落ち着くこともあるが、決裂することもある。でもその会議が終われば一緒にラーメンを食べに行く。そんなもんだと思う。

何で仕事上の議論が人格まで否定されると思うのか、そして10年以上も憎しみを持ち続けることが出来るのか、私にはわからない部分がまだまだある。

2006年7月19日 (水)

スクール・ウォーズ

前々回の「ワン・フォー・ザ・ロード」の言葉を読んだ直後に似ているので急に思い出した言葉がある。

昔のスクール・ウォーズというドラマでの「ワン・フォー・ザ・オール オール・フォー・ザ・ワン」という言葉である。私は当時、ドラマを観ながら泣いた記憶が残っている。

このドラマは簡単に言うと高校(実在する)の落ちこぼれラグビーチームが泣き虫の熱血先生の下で心を一つにして頑張っていき、強くなっていくという内容であるが、見た人も多いと思う。

この言葉は「一人はみんなのために みんなは一人のために」という意味である。団体でやるスポーツ全般に当てはまる言葉であると思うが、会社や集団社会全体にも当てはまるものと今回改めて思った。

すなわち、個人は組織(及び業務)の効率化(みんなが協力して考えて動くこと)を目指し、組織は逆に個人を思いやる(動きやすくしてあげる)ことで個人の能力を引き出す。その結果、組織力(及び業務遂行力)が強くなっていく、ということではないだろうか?

なんかふっと思いついただけに、こじつけている気持ちもするが、まあこれも思い出した「ご縁」だと思って書いてみた。

2006年7月18日 (火)

生と死はセット

これも菩提寺の住職さんから教えていただいた言葉である。人間は生まれた瞬間から全員が「死」への道を進んでいる、という意味である。(言われてみれば当たり前だが、私も住職さんに言われて初めて気がついた。。。)

人間という俗物に限定して話を進めるが、赤ちゃんであろうが老人であろうが全員がそうなのである。でも生死の瀬戸際にいる方やそのご家族以外のほとんどの人は認識していないのではないだろうか?

「今日、自分は死ぬかもしれない。」なんてことを考えながら生きていたら気が気でない。だから考えない。その結果、その日を精一杯生きる気持ちが生まれない。

今の私は逆に意識して考えながら覚悟の上での行動をすることにしている。会社や家でも当然だが、それ以外の全ての場所と時間でそう思うようにしている。なぜかというと以前に書いたかもしれないが「自分が生きていた全ての結果が死ぬ直前に分かる」と思っているからである。命は突然失われることもある、その直前に後悔をしたくはない。

2006年7月17日 (月)

ワン・フォー・ザ・ロード

バーテンダーの世界で使われる言葉であるが、この言葉の意味を簡単に言うと、「今日という一日にさよなら(特に別れを惜しむという意味もある)」ということである。では何にさよならするのか?

みんないろんな一日を送っていることだと思う。自分の心を偽った日、辛い日、悲しい日、怒りの日、いろんな一日がある。その結果、自分を嫌な存在だと思ってしまうこともあるだろう。でも次の日は必ず来てしまう。それもいい日とは限らない。また辛い日の繰り返しかもしれない。私も毎日がその繰り返しである。

いきつけのバーで最後の一杯を飲む(私は今は肝臓を壊しているため出来ないが。)ことで、嫌な一日に、嫌な今日の自分にさよならをして、気持ちを切り替え、また新しい一日を送る活力をもらう。そんな自由な時間があったら少しは苦しみから解放されるかもしれない。そういう意味の言葉である。。。

2006年7月16日 (日)

逆三無主義

「三無主義」とは「ムリ、ムダ、ムラ」をなくすという考えのことである。会社員で知らない人間はほとんどいないと思う。労力と労働時間を短くして節約していくことが肝心で、そうすれば必ず全体の経費削減につながると同時に考える時間が生まれて、会社や人間関係がよくなってくる。

三洋電機の創始者である「井植歳男」さんの言葉だったと思うが、今でも充分に通用するというか出来ていない会社が多いと思う。

うちの会社でもこういう基本的な考え方ではなく「権力」、「残業時間」、「責任転嫁」という「逆三無主義」が横行している。そのために、社内の雰囲気は最低で、「権力に媚び」、「能力のない人間が時間がかかっているだけの残業なのに高評価したり」、「責任を押し付けられないように責任感のある仕事をしない」、こういう状況である。なんとかしようと様々な方法を考えたが、結局、権力にすべてを阻まれた。

自分の考え方は「三無主義」である。「逆三無主義」の現在の会社でどこまで自分が持つかは五里霧中の状態であり、いつかは前回書いた中田英寿ではないが、「引き際に年齢はない。」という考えに基づいて行動しなければいけない時が来るのかもしれない。

2006年7月15日 (土)

中田の引退特別番組

今さっきまで、サッカーの中田英寿選手の引退特別番組を観ていた。今の自分は頭と心のリセット中なので、自然に相手の心が自分の心の中に入り込んでくるような気がした。特に何気ない場面や言葉から彼の想いが伝わることが多かった。(その後、中田のHPも読んでみたが同じ気持ちだった。)

それに加えて、ワールドカップの予選3試合の解説内容に関しては、実際の試合中の解説者がいかにいい加減かということもわかった。

「彼のすごさ。」ということに関しては具体的な言葉では語れない。非常に理論的であると同時に哲学でサッカーをやっている感じも受けた。さらに視点や次元の違いも感じた。きっと他の選手とのあらゆる部分での次元の違いがそう私に思わせたのだと思う。

周囲との考え方の違い、「責任」や「誇り」や「覚悟」という「気持ち(という言葉を彼は使っていた)」面での次元の違う人たちの中で、自分には何ができるか、という点をサッカー人生の中で一番悩んでいたのだと思う。

その結果、諦めなのか彼自身の考えなのかはわからないが、プロからの引退を決めたのだと思った。でもサッカーを捨てるわけではないようだし、肩書きが変わるだけである。

100%の努力を続けてきた結果、彼の身心はきっとぼろぼろだろう。それにしても引き際は見事だと思う。前にも書いたが、引き際の大切さを痛感するとともに、100%での人生を続けてきた結果での引き際には年齢は関係ないこと、これも見習わないといけないと思った。私も環境はまったく違うが引き際が来ているような気持ちになった。

2006年7月14日 (金)

今日の予定

昨日は「改革をしたい。」という思いは同じ方なのに、「現実」の認識の差によってその方にはしごを外されたという非常に辛い一日になってしまった。

今日は過去のブログに書いたとおり、脳みそのフォーマットを行う予定。フォーマットであるから当然、この1か月に考えた部分を全部消すのは仕方がない。この1か月、体調が悪かったにも関わらず、また夜遅くまで様々なことを考えてきたが、全部消す。

ちなみに脱線するが将棋の棋士は1局指すごとに2kg-3kgも減るそうだ。ほとんど動かないにもかかわらず、これだけ減るというのは集中して考えることは相当のエネルギーを使うことの証明ではないだろうか?比較の対象にはならないが、私もこの1か月で体重が7kg以上減った。

病気のため7か月かけて17kg減量した上での1か月での7kgの減である。脳みそを限界まで使って知恵を絞り、身心の疲れをぼろぼろになるまで感じるほどに考えたことが結果的に7kgのダイエットになった。

今回はダイエット成功という考えでよしとする。しかし、愛する娘とお風呂に入る時に湯船の中で「肉ベッド(私の体の上で娘が寝る)」にならなくなったことが娘には悲しいらしい(爆)。世界一大切なこの娘のためにも無理はしないように、また心に誓った。

2006年7月13日 (木)

現実を認識することの難しさ

私は「現実を認識するところから自分の思考が始まる。」と思っている。たとえどんな状況であっても現実から始めないと、思考のスタートラインに立てないし、現実から始めないとずれが生じるからである。

しかし、ほとんどの人間が、過去の「経験」や「蓄積」や「思い込み」というものが、思考を「本当の現実」から始めることを邪魔し、ついつい「過去の現実」から思考を始めてしまうため、先入観が入ったり、物事の視点がずれてしまったりする。そのため、始めてもいないのに最初から不可能だと思い込んだり、憤りや憎しみや人間が持っている様々な感情が生まれてしまっている。

そうなると当然ながら、現実からの思考にも最初から感情が入ることによって正確な判断が出来なくなるのである。そして誤った判断によって人間を狂わせる。世の中には「過去の現実」と「これからのための事実」の区別がつかない人間が多い。

今日はそれを痛感した非常に辛い一日であった。

2006年7月12日 (水)

「ご縁」って何をすればいいのか?

今日はパンを買いに行ったが、そのパン屋でこれも「ご縁なのか?」と思わせる小さな出来事があった。

よく飲み屋のトイレなどに「相田みつを」の文章が飾ってあることが多いが、たまたまその店のトイレに入ったら飾ってあった。その言葉がこれ。。。

「あとじゃできねえんだよなあ いまのことはいましかできぬ。」

ちょうど、先日書いたことであるがこの連休は私にとって脳のフォーマットの最中である。フォーマットの理由も「今は権力亡者の力が強すぎ、改革は無理だから時期を待つしかないのかな。」と考えていた。その矢先に、偶然目に飛び込んできたのがこの文章・・・

あの店にいかなければ、あのトイレに入らなければ、そのページでなければ、私が気がつかなければ、頭にインプットされるはずがなかったことだけは事実。

以前、菩提寺の住職さんに「あらゆる物事がご縁です。」とお言葉を賜った。その時には「確かにそうだな。」と思ったが、特別意識していなかったのだが、こういうタイミングのよすぎる「ご縁」はどのように捉えればいいのだろうか?そしてどのような意味を持つのだろうか?素直にこの言葉どおりに行動すべきなのだろうか?

それとも・・・いや、フォーマット中だから思考は停止しよう。きっと後でその意味が分かる時や「ご縁」があるはずだ。

2006年7月11日 (火)

バブロフの犬

私は仕事人間である。色々あって現在の会社へのモチベーションはなくしているが、職場で「間違っている書類や出来事」があったり、狂っている出来事が発生したり、困っている人がいたりすると条件反射のように「自分を犠牲にしてまで踏ん張ってしまう。」のである。

自分でも気がつかなかったが、これはバブロフの犬そのものである。自分で自分のことを理解できなかったのは自分が未熟であったとしか言いようがないが、諦めるしか仕方がない。

これも教訓だ。自分で自分のことがわからないのだったら、なおさら自分以外の人間のことなんてわかるはずもない、と無意味に納得させることで片付けることにする。

2006年7月10日 (月)

幼児レベルのパワハラ

どこの会社にも存在するはずであるが、権力を持った人間が「正論」や「法や道理(論理)」を封じ込めて間違った方向に会社を進めてしまうことがある。きっと私と同じサラリーマンの方であれば一度は経験しているはずである。もしそういう経験がない方がいたら、私に教えて欲しい。

パワーハラスメントは権力や肩書きが一番だと思っている人間が世の中にたくさん存在している限りなくなることはない。ただし、権力を持った人間がその権力の強大さに気付き、謙虚さを持つことでできるだけ回避できるはずである。

また共産主義であっても資本主義であっても所属する人間には様々な要因は存在しても必ず序列があることに気がつけば、少しでも少なくなるはずである。

パワハラにもいろんな種類があるが、会社を出れば雲散霧消してしまう「会社の肩書き」を権力として行使するほど醜いパワハラはないと思う。(なんだ、自分の会社か。。。)

2006年7月 9日 (日)

約束を守ることは可能か?

人間は約束を守ることは可能なのであろうか?

待ち合わせの約束や食事の約束など比較的守りやすい約束もあれば、最初から難易度の高い約束もあるだろう。私も人生を賭けた約束をすることもある。

「しかし不安であったり、不確実であったりして約束を守ることが保証できない。」という弱気の気持ちが自分の心の中にあるときは相手に対して約束をするべきではない。

所詮、どんな人間は約束を守れないのである。ナポレオンの「格言集」にも「約束を守る最上の方法は決して約束をしないことである。」という記述がある。私もその通りだと思う。

だからといって最初から諦めることはしてはいけない。努力が約束以上の結果を出すことも考えられるからである。そういう覚悟をした上で約束をすることは決して間違っているとは思えない。私はその心がけで物事を考えていきたいと思っている。

2006年7月 8日 (土)

許容量不足

人間の器と度量の話であるが、人間によってこれほどまでに違うものかと驚かされることが多い。

ある会社の人間ではあるが、相手がミスを繰り返すために、相手を罵ってばかりいる人がいる。挙げ句の果てには「私が担当していた時にはこんなことはなかった。」と言い出す始末。

実際にはその方も「ミス連発」で他の人間が気がつかないところでフォローを入れていただけなのではあり、本人が気がついていなかっただけ(笑)。

私はその方に「相手の考え方は自分と違う。だから自分の価値観でモノを考えないようにしてほしい。相手のミスを許せないほど自分はミスをしない人間だと言い切れるのか?」と諭すように繰り返し何度も話をした。

しかし、その方の憎しみは消えず、上司(不思議ちゃん)を連れて相手に苦情を言いに行き、相手も上司を出してきて罵り合ってしまった。相手は脳みそに皺はないが、問題のすり替えがうまいため、上手いこと丸め込まれ、ご丁寧にも「余計な憤り」をお持ち帰りになってきた。それを自分より立場の低い人間にぶつけてうさを晴らすから余計にたちが悪い。

私には最初からわかっていた結果である。だから諭して止めたのであるが、結果的には私に職責という権限がないために無意味であった。

人間の器や度量は全員違うのは当たり前であるが、これだけ器や度量が狭い人間が集まっている組織も珍しい。。。

2006年7月 7日 (金)

人が機会を見捨てること

フランスのことわざに「機会が人を見捨てるよりも人が機会を見捨てる方が多い。」というものがある。

「機会が人を見捨てる」とは「気付いていたチャンスを逃した」とか「機会を与えられたのに逃げた」とか、どちらかというと「心の勇気」がなかったためにダメになってしまったことではないだろうか?

逆に「人が機会を見捨てる」とは「自分が迷っているうちに選択できなかった」とか「やってしまって後悔した」とか「あの時やっておけばよかった」ってことだろうと思う。こちらも「人間の心の勇気」の問題かもしれないが、この2つには大きな違いがあるように思える。

すなわち「やろうとしたかどうか?」である。「やろうとしたが迷った」と「逃げた」は大きく違う。人間は迷う生き物である。その場で迷うのは当然であり、迷った結果、現在の自分の置かれている環境や状況で踏み出せないこともあるだろう。ただ、やらなかったよりも全然いいと思う。

このことわざはきっと「逃げる人間」よりも「迷う人間」の方が多い、ということが言いたいのではないか、と自分では解釈する。

さて、現在の私はどちらの状況なのだろうか、と迷っている。

2006年7月 6日 (木)

余計なことを考えることが大切

人間には勢いというものがあると思う。特に若い時には自分も怖れを知らず、無茶なことをしてきたものだと思う。反省することしきりだ。

年齢を重ねることによって「経験」という「余計なこと」が人間には積み重なってくる。人間は忘れる生き物であるから全部を覚えているわけではないし、もし人間に忘れるという便利な機能がついていなければ、過去の過ちに押し潰され、その人間は確実に壊れてしまうだろう。

この「経験」というものも便利なことがないとは言えない(?)。なんといっても後ろ向きな人間にとっては非常に便利で「前例がある(ない)。」とかいう言い訳に使える事である。

しかし私はその逆も考えている。「経験」ではないが「余計なこと」を考えることで思考の幅が広がることである。「風が吹けば桶屋が儲かる。」までの極端ではないが、実際に年齢を重ね、記憶力や思考力が低下してきた時に、「余計なこと」が自分の思考の役に立ってきたことも多く経験してきた。

私は男ではあるが、仕事の他に育児や家事や障害を持った配偶者の介護なども抱えている。そういう中では今までの仕事での考え方などまったく通用しないこと。かえって邪魔な時の方が多い。逆にそういう時にこそ「余計なこと」が役立っていることを実感している。

皆さんも「余計なこと」を考え、全然関係ないときに「あれ?これって役立つんだ。」という不思議な実感を感じてみてはいかがだろうか?

2006年7月 5日 (水)

たまたま(?)

先日、菩提寺の住職さんとお話をさせていただく機会があったことは以前に書いた。その時に、住職さんが「こうして2人が会えるのは無数のご縁。」ということをおっしゃっていただいた。

もちろん、自分が病気になるといった身近な「ご縁のなさ」が会えない原因になることもあるが、住職さんからは「ご縁というのは無数に存在し、たまたまその極端な例として「テポドン」が東京に落ちてこなかったこともご縁である。」というお言葉があった。

今日、北朝鮮は7発のロケット(テポドンもあった)を発射した。もし日本のどこかに落ちればどこかで無数に存在するご縁が断ち切られることになる。落ちていない状態でも株式市場では「地政学的リスク」と称して、株価が下がったりする。(まあ数日上がっていたので調整の言い訳に使われたのかもしれないが。)

住職さんも極端な例として話しただけのことではあったと思うが、こういう偶然なご縁もあるんだな、と思った。

2006年7月 4日 (火)

思考の空白

私はどちらかというと常に物事を考えている方である。最近の思考の基本的な基準は優先順位として、「人間」、「法と論理」、「正論」の順番である。

私にとって一番楽なのは「正論」である。「物事の本質を見抜き、その目標の達成のために必要なことを順序だてて考えていけばいい」(実際は難しいんだけど)からである。

「人間」を考える時には繰り返して言っていることではあるが、自分以外の人間のことなどわかるはずもなく、個々の考えや行動パターンが違いすぎて、好意が仇になってしまったり、失敗してしまうことが多く、非常に疲れる。

しかし最近は自分で意識して「人間」を基準にして物事を考える習慣をつけるようにしている。なぜかというと、「共感」という似たような価値観を持っていない人間にとっては、自分の正論が必ずしも相手の正論とは限らないからである。

いわゆるこれが「無駄な努力」と呼ばれるものであり、相手のことを知ること、相手の気持ちになって考えること、そうやって対策を考えないと必ず失敗する。(これは間違いないと思っている。)

そんな時、自分でもやっていて、お勧めしたいのは「思考の空白」を作ることである。

とはいっても、何も考えないということではない。

もちろん何も考えないことも必要であって、私も気心の知れた方々限定で、口から勝手に出てきてしまう言葉を制御せずに本能のまま発するというアホ丸出しな話をしながらたまにやるように心がけている。

しかし本当の意味は、脳の中の余分な部分を整理してリセットし、脳の中に新しいことを書き込める空間を作ることである。まあDVD-RWにフォーマットをかけるようなものだろうか?

人間の脳みそはニューロンとシナプスの電気信号(0と1、onとoff)のやりとりで出来ている。要はコンピューターと同じ原理で脳みそは働いているのである。

だとすると脳みそにもフォーマットをかけることでコンピューターと同じように計算能力(人間の場合には「思考能力」)が上がるのではないだろうか?

少なくとも自分の場合には意識してこれをやることで、思考範囲が広がっているような気がする。

2006年7月 3日 (月)

ご縁とイビチャ・オシム氏

「物事は現実をありのまま受け入れることから始まる。」ちょうど私が先週、菩提寺(浄土真宗)の住職さんにお話をしていただいていたときに言われた言葉である。

「現実、事実をありのまま受け入れること。自分の理想や思い込みとの乖離が人間の俗物としての様々な感情を生む。」(この言葉自体は何度も書いてきた。)

同じ事を今度サッカーの日本代表監督に就任した「イビチャ・オシム氏」が言っていた。「日本人は現実を認識すること、日本は日本人の特性を生かしたサッカーをすべきであり、それ以外にない。さらに世界一になりたいなら自分を監督にすべきではない。」

なかなかいえる言葉ではないと思う。見栄っぱりな人間や自分の価値観や人生観だけでものを語る人間からは、こういう言葉は出てこないと思う。

先日、親友に「オシムの言葉」と「オシム語録」の存在を教えていただいた。これもご縁であり、菩提寺の住職さんに言われた言葉とオシム日本代表監督の言葉が同じ、これもご縁であろう。

何が正しいのか、そして正しいことは存在しないのか、私にはまだわからない。でも事実は事実であり、それ以外のなにものでもない。私は「ご縁」という言葉を大切にしていきたいと思う。

2006年7月 2日 (日)

フェルナンド・ド・ロハスの言葉

フェルナンド・ド・ロハスの「セレスチーナ」の中に以下のような言葉がある。

「狂気への第一歩は自分が賢いと思うことである。」

世の中にこの言葉の意味がわかる人間がどれだけいるだろうか?自分が賢いと思う人間はきっと「自分は正しい」と思っているのではないだろうか?その「自分は正しい」と誤解する心が「狂気への第一歩」になるのだと思う。自分の会社にも周囲にもそういう人間は多くいると思うが、自分だけは「賢い」とは思わないことを心がけ、「狂気への道」を進まないように努力していきたいと思う。

2006年7月 1日 (土)

残業至上主義と無能管理職

突然ですが、みなさんはどちらの人間を評価するだろうか?(年齢は同じ。勤務時間を8時間と仮定)

1.「A」という仕事を4時間でこなし、残りの時間を遊んで過ごす社員

2.同じ「A]という仕事を12時間かかり、4時間分の残業代を会社に請求する社員

私は当たり前だが「1.」を評価する。ただし、その遊んでいる残りの4時間で別の前向きな仕事をしてもらい、もっと業務の効率化に勤めてもらうようにモチベーションを上げる。もちろん評価や給料にも反映させる。「2.」の人間には「残業代を支払わないだけでなく、逆に夜遅くまでの電気代などを請求したいくらい。」である。

今の私の会社は「残業至上主義」である。管理職が「残業時間」で仕事をしているかを判断するおばかである。残業時間で仕事の優秀さを判断するのなら、上司などいらない。タイムカードが1枚あればいい。さらに残業時間で判断することは「部下の仕事を把握していないことを証明していることではないかと思う。」なんとまあ遺跡のような会社であろうか。。。

人間には仕事以外に様々な顔があることは今までに何度も書いてきた。母親、父親、子育て、家事、育児、介護のような違った顔を総合して1人の人間が出来上がっているのである。

そういうことを考えながら、限られた時間で優先順位をつけ、効率的に時間内で仕事をこなしている人間も周囲にはいる。こういう社員が評価されないことを非常に不幸に思う。

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