« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006年8月16日 (水)

タイムマシーン

私は理科系であるから、タイムマシーンの原理は理解できる。空間はカーテンのように歪んでおり、その歪んだ空間を一直線に突っ切ればいいのである。簡単に言うが、誰もできていない。ワームホールからホワイトホールへ突き抜ければいいのだが、見つからない。

物理的な話では面白くないので、よくある質問だが「タイムマシーンがあったらどこの過去に戻る?」という質問がある。皆さんはなんと答えるだろうか?

私は。。。過去の後悔がありすぎて決められない。所詮そんなもんだと思う。過去を美化するのはそれが過去だからであり、過去に戻ってもきっと同じ過ちを繰り返すような気がする。

でも自分の過去ではないが行って見たい時代がいくつかある。今まで書いてきた尊敬する方々をこの目で見て見たい。

2006年8月15日 (火)

「角が立つ」という言葉があるが、まさに私にうってつけの言葉である。理想主義と現実、ゆるぎない本質と感情、これらはお互いにぶつかり合う。どこで折り合いをつけるかが大切である。私は折り合いをつけているつもりではあるが、一度感情的にこじれると相手の憎しみはどうしようもない。相手は自分ではないのだから。。。

諦めよう、自分の進むべき道を進むだけだ。

そういえば夏目漱石の「我輩は猫である。」にも「人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だ。」という表現がある。でも私の角は生涯取れないだろう。これが自分の性格なのだから。。。

2006年8月14日 (月)

夏ばて

夏ばて気味である。人間は身心が健康でこそ、よい考えやよい行動がとれ、心にも余裕が生まれる。今日は考えることがすべて裏目に出た。相手のせいではない。自分の体調が悪く「身心」が健康でないせいであろう。身体をゆっくり休ませたいが、なかなかそうもいかないことも多い。上手くいかないからこその人生とはいえ、辛いものだ。。。

2006年8月13日 (日)

浅知恵

「疾風といえども半日も吹き荒れることはない。豪雨といえども一日中降り続くことはない。」

これは老子に出てくる言葉である。自然は人間の自由には動いてくれない。ましてや私レベルの人間の浅知恵では、仏教で言う六道のうち「修羅、餓鬼、畜生」に存在しているであろう輩相手には言葉も通じないだろう。しかし、自由にならないからといって諦めるのは悲しい。

2006年8月12日 (土)

「私は翼を持ち、山の頂にあこがれる。私はしっかりと飛ぶ。私には翼がある。嵐を突き、青空をよぎる翼が。」(ヴィクトル・ユーゴー)

今の私は力のない、翼をもてない飛べない小鳥のような力しかない。しかし、いつか大空を羽ばたけるように耐える時期も必要だと思う。

2006年8月11日 (金)

五島慶太

引き続き、「信念」に関することである。非常に前回と似ているがお許しいただきたい。東急グループの創始者である五島慶太氏は以下のように述べている。

「人間は知と行だけではダメである。そこには必ずだれにも負けないという信念が必要だ。」

勝つための信念は昨日書いた「チャングムの誓い」でも邪魔な信念として扱われているが、「誰にも負けない信念」は絶対に必要である。私の所属する会社でも「権力」や「感情」が「信念」を捻じ曲げることが毎日ある。もちろん権力にはかなわないのはこのブログのテーマであるから、私はひたすら信念を隠している。

「信念」は使えるときに初めて使えるのである。強大な権力に権力を持たない人間が「大きな信念」で立ち向かっても歯が立たない。しかし、だからといって迎合もしないし、自分を変えることもしない。信念を持ち続けることは絶対にやめてはいけないと思う。

自分が「信念」を使えるそのときまで。。。果たしてそのときが来るのであろうか?私にはわからない。。。

2006年8月10日 (木)

吉川英治とチャングムの誓い

吉川英治さんといえば、歴史小説の大御所である。私もいろんな小説を読んで、現代に知恵として生かしている。前にも書いたが歴史は繰り返されるのだ。その吉川さんの言葉に以下のような言葉がある。

「無心さ、純粋さ、素直さなどは人の心を打つ。その力は、こざかしい知恵をはるかに凌駕する。」

この言葉を私の心に強く突き刺さる。ちょうど「チャングムの誓い」という韓流ドラマをDVDで観ているが、同じようなことが出てくる。

勝負に勝つためにこざかしい知恵で失敗した主人公を戒めるために、自分で気がつくまであえて自分まで窮地に追い込んでも信念を変えない。

「料理人に必要なのは相手を思い遣る真心、どんな相手にでも毒になる料理は出してはいけない。相手を思いやり、時にはどんな相手にでも料理で換言をする。」ということである。

私も同感である。何を差し置いても必要なのは「心」である。立場が違えば必要な真心が違うのは私も充分に理解している。しかし、そのときに自分にできる精一杯の真心を示せないようでは生きている価値がない。無駄な努力とわかっていても、相手に通じないと分かっていても、今できることは今しかない。

「吉川英治さん」と「チャングムの誓い」。まったく違うところに「こざかしい知恵」ではなく「真心」でやるべきことだと実感する共通点が見つかったのは収穫であった。

2006年8月 9日 (水)

ワタミ

表題の思いや心を持っている方がどれだけいるだろうか?打算で動き、権力に媚びを売り出世する、そんな世の中になってきたことは悲しいことである。人の役に立ちたいと思う人間が本当に少なくなった。(以前より書いているがもう自分は嘆きの状態である。)

以前「カンブリア宮殿」という番組で外食チェーンの「ワタミ」の社長が以下のように語っていた。

「採用の条件は夢を持つことである。その夢に向かってワタミを利用してもかまわない。逆に夢を持たない人間などはいらない。」

そしてご本人も介護や高齢化社会へ積極的な行動を取っておられる。もちろんワタミの食材もできるだけ農薬を使わないものを仕入れ、さらに安価な価格でお客様に提供できるように努力をしている。

こういう社会を変革しようとする経営者が世の中には必要なのであろう。私の所属する会社などは役員は部下からの報告を待ち、ケチをつけるだけの番人。そして不毛な儀式で内部ばかり向いていて本当にお客様の方を向いていない。

成長する会社の条件はただ一つ。

「現場を経営陣が把握することである。」

部下から茶坊主のように報告されるゆがんだ事実を鵜呑みにして、役員部屋から出てこない役員など害になるだけで不要である。

2006年8月 8日 (火)

官僚と政治家の発想

今日は過去の自分の経験談を語る。国家財政や地方財政が危険な状況にあることはニュースなどで知っている人が多いと思っている。前にもリンクを張ったような気がするが、日本の赤字財政カウンター(http://www.kh-web.org/fin/)を見ると怖くなる。。。

それでも自分のつたない経験によると官僚と政治家(及びその周辺に群がる輩)は「自分達は特権階級である。だからどんなに日本の国家財政が赤字(赤字国債の発行額は急激に増え続けている)になっても自分達がもらう額を減らそうとはしないし、逆に自分の分は懐にしまってから、さてどうやって減らそうか?」と考える。おいおい、いい加減にしろ。

当然のごとく「医療費の自己負担分を上げる、恒久減税を廃止する、年金の負担料も上げる、さらに最後の手段として消費税でも上げて庶民に負担させるか?」と考え、「政府が発表する統計資料(例:出生率)まで操作する。」というのが現在の日本である。公僕であれば自分達の給料を返上してでも国家に尽くすべきである。昔はそういう政治家や官僚がいたことも事実であると思う。通商産業省(当時)の高級官僚(言い方は身分制度のようでいやだが)の方が書いた「官僚たちの夏」と言う本を読んでそれとのギャップに経験者として驚いた。

今は国民の目をごまかすために、公務員宿舎の家賃を上げる、売却して借金を減らすなどと言っているが、上記のカウンターを見れば一目瞭然。小手先のアピールでしかない。さらに悪どいことに新しく新築の公務員宿舎を数百億円の税金を使って建てている。

呆れてモノが言えない。まあこれが日本政府の現状であるし、昨日書いた「人のために・・・」ということを全員が思わないと変わらないであろう。

住みにくい世の中になったものだと思う。

一つだけ言えることは、日本は「民主主義国家、資本主義国家」ではない。それは見せ掛けで官僚や政治家が支配する「共産主義国家」である。何故そのことに国民が気がつかないのか、内閣の支持率が高いのか、私には理解できない。

2006年8月 7日 (月)

自分以外のために・・・

赤ちゃんは人の心を癒してくれる。親は寝る暇もなく非常に大変なのだが、私も娘が1歳を過ぎた頃から育児を自分が中心となって経験をしたので分かっていて書いている。

でも産まれたばかりの赤ちゃんは見ているだけで癒される。赤ちゃんは周囲の人を癒そうとしているわけではないが、我々はそういう身近なところから「人のために何ができるか?」ということを考えなくてはいけないと思う。

また他の人の言葉を使ってこのブログを書いてしまう自分も悲しいが、欲のない、物が不足していた、理想主義がまだ生きていた、そういう時代の昔の人の教えには共感を覚えてしまうのでので仕方ない。今日は演説を引用をさせていただく。

「人のために何かすることで誰もが素晴らしい人になれる。」

1968年に暗殺されたマーチン・ルーサー・キング・Jrの演説での言葉である。

同じくダラスで暗殺されたアメリカ大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK)も就任演説で「国家に何をしてもらうのではなく、国家に何をしてあげられるかを考えてほしい。」という演説をしている。

共通しているのは「自分以外のために・・・」である。こういう言葉を今の世の中を席巻している「利己主義」、「金儲け主義」、「自己中心的な人間」も聞くべきだと思う。そして素直に耳の痛い言葉を聞きいれ、反省すべきだと思う。そうしないと確実にこの国は(もちろん自分の会社も)潰れる。

2006年8月 6日 (日)

民俗学の道

今日も読んだ本に付箋を付けておいて共感した言葉である。このタイトルは宮本常一さんという民俗学者の本の題名である。昨日までとはうって変わってゆったりとした言葉ではあるが、たまにはリラックスして、こういう言葉もいいなと思って書いてみることにする。

「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。」

基本的に私はこういう人が見逃したところを注視してみるように普段から心がけている。10人以上が見た書類が私のところで間違いが発見されることがたくさんある。また私が見逃すこともたくさんあり、その時は上司の1名の方が同じような考えで見つけてくれる。だからといって油断はしないようにしているが体調や心理状態によってミスもある。だから人間なのだ。

仕事も民俗学も似ているなあ、と感じた。しかし、何度も仕事上でモチベーションを下げられても、はしごを外されても条件反射の私はまったく学習能力がない。懲りないのである。焦らず、自分の選んだ道をしっかりと歩けるといいとは思うが、まだその道すら見つかっていない。

2006年8月 5日 (土)

坂口安吾の悪妻論

最近では毎日、以前の読書によって本当に感銘を受けた言葉を見返すことが多い。この本もその一つである。本当は違う目的で読んだ本であるが、前後は省略して言葉だけを紹介する。

「悲しみ、苦しみは人生の花だ。」

意味は「生きているからこそ、悲しみや苦しみを味わえる。そして、だからこそ、人間は心豊かになれる。」ということであろう。

私の家族は娘も含めて「悲しみ、苦しみ」の極限にある。先日も娘に「ママが死ぬのが怖い。」と寝かしつけのときに1時間以上も泣かれた。

前にも書いたが私の配偶者は若くして脳卒中になり、厳しい後遺症(左半身の感覚なし、常に剣山で刺されるような痛み、30分以上正座した後のようなしびれ)と闘っている。こういう感覚が24時間続いていると聞かされている。だから、仕事をしている時間はそっちに集中することで少し楽になる、ということで就職もO.K.した。またストレス発散のための買い物なども出来るだけ自由にさせてあげたいと心から思う。

でも娘に悪影響を与える言葉を娘の前で発するのはやめてもらいたいし、私と向き合って話し、妥協点を見つけたいと思うのも私の本心である。しかし、後遺症の辛さは本人にしかわからず、本人も毎日「限界だ。死にたい。」と言っている。脳卒中の後遺症としては厳しい状況だが、こんなに生活習慣病が騒がれている中、こういう後遺症を持っている方はたくさんいると思う。早く医学が進歩して欲しい。。。

苦しみや悲しみが人生の花だ、と言われても私にはまだ苦しみとは苦しみでしかない。きっと配偶者もそうだろう。自分の苦しみで精一杯で、だから他人に目が向かないのであろう。私は早く自分の心を無にして、配偶者の言動や行動、その他すべてをありのままを受け入れるようになりたいと思っている。そうすれば心が豊かになれると信じて。。。

2006年8月 4日 (金)

新渡戸稲造

最近、いろんな方の言葉を引用することが多い。読書量が異常に増えているからである。感銘を受けたところに付箋を付けておき、時々めくっている。ご縁だとは思うが、今日は新渡戸稲造さんの言葉が目に付いたので紹介させていただく。

「いかに苦しいことがあってもヤケになるのは短慮の極みである。逆境にある人は常にもう少しだと思って進むがよい。いずれの日か前途に光明を望むことを疑わない。」

この言葉は昨日の続きである。私はこれからも無謀と分かっていても権力に闘いを挑むだろう。しかしヤケになることはしない。ただ、気持ちの整理をするために菩提寺の念仏である「正信念仏げ」を唱えることは多い。私の現在は逆境の極みにあると思う。でも努力を続けていれば「前途に光明が差してくる。」ことを信じてみたいと思う。

ただし、今の会社という考えではなく、自分の人生の光明という意味である。

2006年8月 3日 (木)

魯迅と今日の私の考え

昨日に引き続き、人物紹介と私が感銘を受けた言葉を紹介する。小学生の頃「阿Q正伝」を読んで感動したので、数ヶ月前にまた読み返してみた。

その魯迅は以下のように述べている。

「自己満足しない人間の多くは、永遠に前進し、永遠に希望をもつ。」

私は「パブロフの犬」である。会社にどんなパワハラを受けても条件反射で人生に対して常に100%で頑張ってしまうように身体が無条件で反応してしまう。モチベーションはないが、自己満足もしていない。どんな時でも問題意識を持つことを忘れない。だから条件反射という問題意識で書類や組織の体制、経営者の資質、無駄な儀式などに反応してしまうのである。この私の条件反射は上記の言葉の「自己満足していないから、永遠に前進し、希望を持つという言葉と共通するのではないか?」と思った。

徐々に改革するのがいいのか、一気にやるのがいいのかはその組織によって違うはずである。私は会社の壊れ具合を考え、一気にやらないと壊れると考えているだけである。確かに権力はない、肩書きもない、でも会社の本質を見極めること、会社の将来を憂いていることは誰にも負けない自信はある。

また、これは私の性格であるから変えられようもない。ただ、「物事の本質を見極めた理想主義、そしてそのための対策を考えること。」これだけはどうしても考え続けてしまう。決して妥協できない。

人間が違えば考え方も違う。このブログのタイトルである「非理法権天」からわかるように結局は「法や道理」は「権力」には勝てないのである。

しかし、無駄とわかっていても、何度撃沈しても、上司に逆らい評価が下がり続けても、自分が「この会社は治らない。」と悟って会社を見限るまで闘いを挑むつもりである。

私が会社を去ることを残念に思ってくださっている方が会社の内部にも少しではあるがいてくれる。それだけが支えである。

2006年8月 2日 (水)

土光敏夫

いわずと知れた中曽根総理大臣時代の経団連の会長(経済界の重鎮)であり、行政改革と財政再建に取り組んだ人物である。

「土光臨調」では中曽根康弘総理大臣に「自分の意見を絶対に通していただかないと引き受けない。そうしないと財政悪化(100兆円の借金、今の10分の1)で日本は潰れる。」と言ってすべてを飲ませるほどの説得力を持っていた。国鉄の解体や様々なことを進言してきたが、結局は政治家や官僚の談合につぶされ、政府は増税を決定し、「増税なき財政再建」は骨抜きにされた。

土光さんの悔しさはどれだけのものであったか想像に難くない。土光さんの食事をテレビで見たことがある。目刺しや野菜と少しのご飯、増税なき財政再建をするには、質素倹約が必要だと自分から実践して見せていたのである。こういうところは「徳川吉宗」に似ている。

しかし、その後の土光さんは日本をただ見守るしかなく、悔しさと人生の教訓を以下の言葉のように残している。

「私自身は21世紀の日本を見ることはないでありましょう。しかし新しい世代である、私たちの孫や曾孫の時代に、我が国が活力に満ちた明るい社会であり、国際的にも立派な国であることを心から願わずにいられないのであります…。」

「失敗は終わりではない。それを追求していくことによって、はじめて失敗に価値が出てくる。失敗は諦めたときに失敗になるのだ。」

会社も同じであろう。もう2-3年しかいない脳みそが退化した保身だけの老人が今後の方針を決め、20年後、30年後まで同じ会社で働く人間のことを考えずに、周囲にイエスマンを集める。耳に心地よい言葉しか聞き入れない。権力行使にのみ尽力を注ぎ、これからの人間のモチベーションを下げ続ける。こんなことは企業の存続に際して決してあってはならないことである。

何もしないことで減点を免れる、詭弁による責任転嫁をして、上司のご機嫌をとる。こういう人間達は自分の失敗を絶対に認めない。部下であろうが上司であろうが責任を取らせやすいところに押し付ける。

私は少なくとも土光さんの精神を絶対に忘れない。

2006年8月 1日 (火)

思考に功名心は邪魔

私は将棋を指す。しょーもない話ではあるが、自分が小学生の頃に将棋界の頂点に立っている「羽生善治三冠」と同じ将棋道場に通っていた。同じ小学生だったこともあり、何度か3つ年下の小学生の彼と指したことがある。(彼が入ってきて3か月頃であったが当然、1度も勝てずボロ負けした。)

負けず嫌いの私は、実力差に唖然としてそれ以降将棋道場に行かなくなってしまったのだが、彼がプロの頂点に立っていることを考えると、負けて当たり前だったのである。でも未来は見えないのだから判断が正しかったのだろうか?

しかし、行かなかったのは間違っていなかったと思う。その時の私は将棋のプロになることも少しだけ考えていたが、努力を繰り返し狭き門を乗り越えてプロになれても羽生にボロ負けのプロレベルだったと思う。それでは将棋の真理・本質を目指す意味がないからである。

ところで、名人位を19期も保持していた故大山康晴十五世名人の言葉に以下のような言葉がある。

「功名心をしりぞけて、平常心、不動心を持ち続けよ。」

将棋のような頭脳戦争の場合には、頂点に立ちたいという気持ちで努力をし続けないといけない世界であるにもかかわらず、その頂点にい続けるために必要なのは「功名心」は邪魔なだけであり、「平常心、不動心が必要」というのは深い意味があると思う。私も思考の際には出来るだけ「平常心、不動心」を持って思考という観点では頭脳の勝負ができればいいと思う。

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ