2006年10月10日 (火)

考えすぎ

書きたいことはたくさんあったのですが、疲れすぎて更新する元気がありませんでした。

今日はこの言葉だけ。

「考えすぎて失敗することもある。成り行きに任せて成功することもある。」

周辺のことが見えすぎ、気を配りすぎてストレスが溜まってしまう自分が哀しくなる言葉だ。そして常に周囲のことを最優先してしまい、自分の身心をぼろぼろにしてしまう自分の性格が悲しい。

2006年9月30日 (土)

「1-2-7の法則」

人間は基本的に身勝手な生き物である。自分さえよければ「相手の立場」は考えないものだと痛感している。

社会とは「1割の使える人間と2割のどうでもいい人間と7割の余分な人間」から成り立っていると聞いたことがある。「1-2-7の法則」という名前がついている。

部屋を思い切り汚くした幼稚園で同様の実験結果がある。部屋を片付けるのは1割。無関心が2割、汚すのが7割だったそうだ。

しかし、幼稚園生の実験には続きがある。部屋を片付けていた1割の子供を外に出し、残りの9割の幼児だけでどうなるか?

結果は今までは片付けていなかった幼児が片付け始め、結局、「1-2-7の法則」になったそうだ。何度繰り返しても同じ結果であったらしい。

そうやって使える人間だけを選抜する社会も息苦しいのかもしれないが、私の会社のように使えない余分な人間がさすがに90%を超えている状態(「0.1-0.7ー9.2」くらいだろうか?)だととても支えきれない。

幼児よりも悪化しているケースが私の勤める会社だ。同じような社会はどこにでも転がっているだろう。。。人間はとことん進歩しない生き物だ。

もともと配慮や気配りでストレスを溜める方であったが、会社や人間が極限まで嫌いになってきた。

2006年9月13日 (水)

心底疲れました

またまた続きであるが、書く気力も体力もなくなってきた。

不眠、背中の痛み、頭痛、食欲不振といった症状がひどくなってきている。

今日はこれ以上書く気力がない。。。

2006年9月12日 (火)

問題意識

昨日の話の続きです。私の会社はほんとに無駄な手続きが多く、それを当たり前だと思って「問題意識」を持っていない人間が多すぎる。

その仕事は必要なのか?そのやり方は正しいのか?もっと効率的な方法はないのか?論理に矛盾はないのか?それがなによりも社員のためになるのか?そして会社のためになるのか?

そういうことを考えない人間達の中で、自分(及び少数の共通認識を持った仲間たち)が果たしてどんなことが出来るのだろう?

またそういう問題意識のない人間達ほど、妬みや嫉みという心を持ち、問題意識を持っている人間に改善提案などを出され、自分の領域に踏み込んでくる人間をもっとも嫌う。さらに姑息ないやがらせのようなことまでされてしまい、敵と解釈されてしまうことが多い。

どうしてみんな問題意識を持たないのだろう?自分の仕事を効率的にして、楽になりたいと思わないのだろう?

「人生観の違い」ということで簡単に片付けられるが、やっぱりそんなに簡単に納得できない。ただ、この矛盾は自分の身心に多大なダメージを与える。

今までブログの更新ができないほど忙しく、身体もまたまた壊れてきた。疲れもピークに達している。

2006年9月11日 (月)

仕事って?

久しぶりの更新になりました。この間、仕事の上でもその他のことでもいろんなことがありました。もし定期的に読んでくださっている方がいらっしゃいましたらこの場を借りてお詫びをさせていただきます。

もともと無理を承知で道理や法で権力に抵抗することが可能かということをきっかけとして書き始めたこのブログ。更新できなかった期間は、自分の会社でそれを試していました。

通常のほとんどのサラリーマンが自分の好きな仕事をしているとは思えない。ただ成長する会社と腐敗していく会社の区別はついてきたように思う。

一言で言うと、役員が部屋に閉じこもり、下から書類が上がってくるのを二重三重にも無駄な仕組みを作り出し、それを担当する職員がそれに奔走されていれば、前向きな仕事なんてできっこない。今の部署でも案件によっては「社長レク」、「副社長レク」、「役員会」と同じ案件で3つも手続きがある。それらを日程にあわせてスケジュール管理をしているようでは本来の仕事の時間が足りないのは当たり前である。

成長する会社ほど、取締役、部長、課長などの関係がフランクであり、社長が各部署を回って問題点の御用聞きをする会社もあると聞く。

日産のゴーン社長も必ず現場に出向いて作業者からも改善や問題点などの話を聞き、そこからのヒントで経営戦略を立てていく。(最近売れてないようですが。。。)

経営陣が「自分が知らないから責任はない。」とか、「呆れた話だが言った事すら忘れてしまう。」とか、「レク書類を放置する。」とか無駄で内部向けの仕事が多く、上が責任をとらないなどの企業は必ず「人」という会社にとって一番大切な財産すら失うことになる。有能な人材ほどそれに気がつき、会社を見捨てていくことになるのだと思う。

サラリーマンは時間や不満を我慢して給料をもらっている奴隷制度のようなものなんだろうな、と思う。

2006年8月16日 (水)

タイムマシーン

私は理科系であるから、タイムマシーンの原理は理解できる。空間はカーテンのように歪んでおり、その歪んだ空間を一直線に突っ切ればいいのである。簡単に言うが、誰もできていない。ワームホールからホワイトホールへ突き抜ければいいのだが、見つからない。

物理的な話では面白くないので、よくある質問だが「タイムマシーンがあったらどこの過去に戻る?」という質問がある。皆さんはなんと答えるだろうか?

私は。。。過去の後悔がありすぎて決められない。所詮そんなもんだと思う。過去を美化するのはそれが過去だからであり、過去に戻ってもきっと同じ過ちを繰り返すような気がする。

でも自分の過去ではないが行って見たい時代がいくつかある。今まで書いてきた尊敬する方々をこの目で見て見たい。

2006年8月15日 (火)

「角が立つ」という言葉があるが、まさに私にうってつけの言葉である。理想主義と現実、ゆるぎない本質と感情、これらはお互いにぶつかり合う。どこで折り合いをつけるかが大切である。私は折り合いをつけているつもりではあるが、一度感情的にこじれると相手の憎しみはどうしようもない。相手は自分ではないのだから。。。

諦めよう、自分の進むべき道を進むだけだ。

そういえば夏目漱石の「我輩は猫である。」にも「人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だ。」という表現がある。でも私の角は生涯取れないだろう。これが自分の性格なのだから。。。

2006年8月14日 (月)

夏ばて

夏ばて気味である。人間は身心が健康でこそ、よい考えやよい行動がとれ、心にも余裕が生まれる。今日は考えることがすべて裏目に出た。相手のせいではない。自分の体調が悪く「身心」が健康でないせいであろう。身体をゆっくり休ませたいが、なかなかそうもいかないことも多い。上手くいかないからこその人生とはいえ、辛いものだ。。。

2006年8月13日 (日)

浅知恵

「疾風といえども半日も吹き荒れることはない。豪雨といえども一日中降り続くことはない。」

これは老子に出てくる言葉である。自然は人間の自由には動いてくれない。ましてや私レベルの人間の浅知恵では、仏教で言う六道のうち「修羅、餓鬼、畜生」に存在しているであろう輩相手には言葉も通じないだろう。しかし、自由にならないからといって諦めるのは悲しい。

2006年8月12日 (土)

「私は翼を持ち、山の頂にあこがれる。私はしっかりと飛ぶ。私には翼がある。嵐を突き、青空をよぎる翼が。」(ヴィクトル・ユーゴー)

今の私は力のない、翼をもてない飛べない小鳥のような力しかない。しかし、いつか大空を羽ばたけるように耐える時期も必要だと思う。

2006年8月11日 (金)

五島慶太

引き続き、「信念」に関することである。非常に前回と似ているがお許しいただきたい。東急グループの創始者である五島慶太氏は以下のように述べている。

「人間は知と行だけではダメである。そこには必ずだれにも負けないという信念が必要だ。」

勝つための信念は昨日書いた「チャングムの誓い」でも邪魔な信念として扱われているが、「誰にも負けない信念」は絶対に必要である。私の所属する会社でも「権力」や「感情」が「信念」を捻じ曲げることが毎日ある。もちろん権力にはかなわないのはこのブログのテーマであるから、私はひたすら信念を隠している。

「信念」は使えるときに初めて使えるのである。強大な権力に権力を持たない人間が「大きな信念」で立ち向かっても歯が立たない。しかし、だからといって迎合もしないし、自分を変えることもしない。信念を持ち続けることは絶対にやめてはいけないと思う。

自分が「信念」を使えるそのときまで。。。果たしてそのときが来るのであろうか?私にはわからない。。。

2006年8月10日 (木)

吉川英治とチャングムの誓い

吉川英治さんといえば、歴史小説の大御所である。私もいろんな小説を読んで、現代に知恵として生かしている。前にも書いたが歴史は繰り返されるのだ。その吉川さんの言葉に以下のような言葉がある。

「無心さ、純粋さ、素直さなどは人の心を打つ。その力は、こざかしい知恵をはるかに凌駕する。」

この言葉を私の心に強く突き刺さる。ちょうど「チャングムの誓い」という韓流ドラマをDVDで観ているが、同じようなことが出てくる。

勝負に勝つためにこざかしい知恵で失敗した主人公を戒めるために、自分で気がつくまであえて自分まで窮地に追い込んでも信念を変えない。

「料理人に必要なのは相手を思い遣る真心、どんな相手にでも毒になる料理は出してはいけない。相手を思いやり、時にはどんな相手にでも料理で換言をする。」ということである。

私も同感である。何を差し置いても必要なのは「心」である。立場が違えば必要な真心が違うのは私も充分に理解している。しかし、そのときに自分にできる精一杯の真心を示せないようでは生きている価値がない。無駄な努力とわかっていても、相手に通じないと分かっていても、今できることは今しかない。

「吉川英治さん」と「チャングムの誓い」。まったく違うところに「こざかしい知恵」ではなく「真心」でやるべきことだと実感する共通点が見つかったのは収穫であった。

2006年8月 9日 (水)

ワタミ

表題の思いや心を持っている方がどれだけいるだろうか?打算で動き、権力に媚びを売り出世する、そんな世の中になってきたことは悲しいことである。人の役に立ちたいと思う人間が本当に少なくなった。(以前より書いているがもう自分は嘆きの状態である。)

以前「カンブリア宮殿」という番組で外食チェーンの「ワタミ」の社長が以下のように語っていた。

「採用の条件は夢を持つことである。その夢に向かってワタミを利用してもかまわない。逆に夢を持たない人間などはいらない。」

そしてご本人も介護や高齢化社会へ積極的な行動を取っておられる。もちろんワタミの食材もできるだけ農薬を使わないものを仕入れ、さらに安価な価格でお客様に提供できるように努力をしている。

こういう社会を変革しようとする経営者が世の中には必要なのであろう。私の所属する会社などは役員は部下からの報告を待ち、ケチをつけるだけの番人。そして不毛な儀式で内部ばかり向いていて本当にお客様の方を向いていない。

成長する会社の条件はただ一つ。

「現場を経営陣が把握することである。」

部下から茶坊主のように報告されるゆがんだ事実を鵜呑みにして、役員部屋から出てこない役員など害になるだけで不要である。

2006年8月 8日 (火)

官僚と政治家の発想

今日は過去の自分の経験談を語る。国家財政や地方財政が危険な状況にあることはニュースなどで知っている人が多いと思っている。前にもリンクを張ったような気がするが、日本の赤字財政カウンター(http://www.kh-web.org/fin/)を見ると怖くなる。。。

それでも自分のつたない経験によると官僚と政治家(及びその周辺に群がる輩)は「自分達は特権階級である。だからどんなに日本の国家財政が赤字(赤字国債の発行額は急激に増え続けている)になっても自分達がもらう額を減らそうとはしないし、逆に自分の分は懐にしまってから、さてどうやって減らそうか?」と考える。おいおい、いい加減にしろ。

当然のごとく「医療費の自己負担分を上げる、恒久減税を廃止する、年金の負担料も上げる、さらに最後の手段として消費税でも上げて庶民に負担させるか?」と考え、「政府が発表する統計資料(例:出生率)まで操作する。」というのが現在の日本である。公僕であれば自分達の給料を返上してでも国家に尽くすべきである。昔はそういう政治家や官僚がいたことも事実であると思う。通商産業省(当時)の高級官僚(言い方は身分制度のようでいやだが)の方が書いた「官僚たちの夏」と言う本を読んでそれとのギャップに経験者として驚いた。

今は国民の目をごまかすために、公務員宿舎の家賃を上げる、売却して借金を減らすなどと言っているが、上記のカウンターを見れば一目瞭然。小手先のアピールでしかない。さらに悪どいことに新しく新築の公務員宿舎を数百億円の税金を使って建てている。

呆れてモノが言えない。まあこれが日本政府の現状であるし、昨日書いた「人のために・・・」ということを全員が思わないと変わらないであろう。

住みにくい世の中になったものだと思う。

一つだけ言えることは、日本は「民主主義国家、資本主義国家」ではない。それは見せ掛けで官僚や政治家が支配する「共産主義国家」である。何故そのことに国民が気がつかないのか、内閣の支持率が高いのか、私には理解できない。

2006年8月 7日 (月)

自分以外のために・・・

赤ちゃんは人の心を癒してくれる。親は寝る暇もなく非常に大変なのだが、私も娘が1歳を過ぎた頃から育児を自分が中心となって経験をしたので分かっていて書いている。

でも産まれたばかりの赤ちゃんは見ているだけで癒される。赤ちゃんは周囲の人を癒そうとしているわけではないが、我々はそういう身近なところから「人のために何ができるか?」ということを考えなくてはいけないと思う。

また他の人の言葉を使ってこのブログを書いてしまう自分も悲しいが、欲のない、物が不足していた、理想主義がまだ生きていた、そういう時代の昔の人の教えには共感を覚えてしまうのでので仕方ない。今日は演説を引用をさせていただく。

「人のために何かすることで誰もが素晴らしい人になれる。」

1968年に暗殺されたマーチン・ルーサー・キング・Jrの演説での言葉である。

同じくダラスで暗殺されたアメリカ大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK)も就任演説で「国家に何をしてもらうのではなく、国家に何をしてあげられるかを考えてほしい。」という演説をしている。

共通しているのは「自分以外のために・・・」である。こういう言葉を今の世の中を席巻している「利己主義」、「金儲け主義」、「自己中心的な人間」も聞くべきだと思う。そして素直に耳の痛い言葉を聞きいれ、反省すべきだと思う。そうしないと確実にこの国は(もちろん自分の会社も)潰れる。

2006年8月 6日 (日)

民俗学の道

今日も読んだ本に付箋を付けておいて共感した言葉である。このタイトルは宮本常一さんという民俗学者の本の題名である。昨日までとはうって変わってゆったりとした言葉ではあるが、たまにはリラックスして、こういう言葉もいいなと思って書いてみることにする。

「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。」

基本的に私はこういう人が見逃したところを注視してみるように普段から心がけている。10人以上が見た書類が私のところで間違いが発見されることがたくさんある。また私が見逃すこともたくさんあり、その時は上司の1名の方が同じような考えで見つけてくれる。だからといって油断はしないようにしているが体調や心理状態によってミスもある。だから人間なのだ。

仕事も民俗学も似ているなあ、と感じた。しかし、何度も仕事上でモチベーションを下げられても、はしごを外されても条件反射の私はまったく学習能力がない。懲りないのである。焦らず、自分の選んだ道をしっかりと歩けるといいとは思うが、まだその道すら見つかっていない。

2006年8月 5日 (土)

坂口安吾の悪妻論

最近では毎日、以前の読書によって本当に感銘を受けた言葉を見返すことが多い。この本もその一つである。本当は違う目的で読んだ本であるが、前後は省略して言葉だけを紹介する。

「悲しみ、苦しみは人生の花だ。」

意味は「生きているからこそ、悲しみや苦しみを味わえる。そして、だからこそ、人間は心豊かになれる。」ということであろう。

私の家族は娘も含めて「悲しみ、苦しみ」の極限にある。先日も娘に「ママが死ぬのが怖い。」と寝かしつけのときに1時間以上も泣かれた。

前にも書いたが私の配偶者は若くして脳卒中になり、厳しい後遺症(左半身の感覚なし、常に剣山で刺されるような痛み、30分以上正座した後のようなしびれ)と闘っている。こういう感覚が24時間続いていると聞かされている。だから、仕事をしている時間はそっちに集中することで少し楽になる、ということで就職もO.K.した。またストレス発散のための買い物なども出来るだけ自由にさせてあげたいと心から思う。

でも娘に悪影響を与える言葉を娘の前で発するのはやめてもらいたいし、私と向き合って話し、妥協点を見つけたいと思うのも私の本心である。しかし、後遺症の辛さは本人にしかわからず、本人も毎日「限界だ。死にたい。」と言っている。脳卒中の後遺症としては厳しい状況だが、こんなに生活習慣病が騒がれている中、こういう後遺症を持っている方はたくさんいると思う。早く医学が進歩して欲しい。。。

苦しみや悲しみが人生の花だ、と言われても私にはまだ苦しみとは苦しみでしかない。きっと配偶者もそうだろう。自分の苦しみで精一杯で、だから他人に目が向かないのであろう。私は早く自分の心を無にして、配偶者の言動や行動、その他すべてをありのままを受け入れるようになりたいと思っている。そうすれば心が豊かになれると信じて。。。

2006年8月 4日 (金)

新渡戸稲造

最近、いろんな方の言葉を引用することが多い。読書量が異常に増えているからである。感銘を受けたところに付箋を付けておき、時々めくっている。ご縁だとは思うが、今日は新渡戸稲造さんの言葉が目に付いたので紹介させていただく。

「いかに苦しいことがあってもヤケになるのは短慮の極みである。逆境にある人は常にもう少しだと思って進むがよい。いずれの日か前途に光明を望むことを疑わない。」

この言葉は昨日の続きである。私はこれからも無謀と分かっていても権力に闘いを挑むだろう。しかしヤケになることはしない。ただ、気持ちの整理をするために菩提寺の念仏である「正信念仏げ」を唱えることは多い。私の現在は逆境の極みにあると思う。でも努力を続けていれば「前途に光明が差してくる。」ことを信じてみたいと思う。

ただし、今の会社という考えではなく、自分の人生の光明という意味である。

2006年8月 3日 (木)

魯迅と今日の私の考え

昨日に引き続き、人物紹介と私が感銘を受けた言葉を紹介する。小学生の頃「阿Q正伝」を読んで感動したので、数ヶ月前にまた読み返してみた。

その魯迅は以下のように述べている。

「自己満足しない人間の多くは、永遠に前進し、永遠に希望をもつ。」

私は「パブロフの犬」である。会社にどんなパワハラを受けても条件反射で人生に対して常に100%で頑張ってしまうように身体が無条件で反応してしまう。モチベーションはないが、自己満足もしていない。どんな時でも問題意識を持つことを忘れない。だから条件反射という問題意識で書類や組織の体制、経営者の資質、無駄な儀式などに反応してしまうのである。この私の条件反射は上記の言葉の「自己満足していないから、永遠に前進し、希望を持つという言葉と共通するのではないか?」と思った。

徐々に改革するのがいいのか、一気にやるのがいいのかはその組織によって違うはずである。私は会社の壊れ具合を考え、一気にやらないと壊れると考えているだけである。確かに権力はない、肩書きもない、でも会社の本質を見極めること、会社の将来を憂いていることは誰にも負けない自信はある。

また、これは私の性格であるから変えられようもない。ただ、「物事の本質を見極めた理想主義、そしてそのための対策を考えること。」これだけはどうしても考え続けてしまう。決して妥協できない。

人間が違えば考え方も違う。このブログのタイトルである「非理法権天」からわかるように結局は「法や道理」は「権力」には勝てないのである。

しかし、無駄とわかっていても、何度撃沈しても、上司に逆らい評価が下がり続けても、自分が「この会社は治らない。」と悟って会社を見限るまで闘いを挑むつもりである。

私が会社を去ることを残念に思ってくださっている方が会社の内部にも少しではあるがいてくれる。それだけが支えである。

2006年8月 2日 (水)

土光敏夫

いわずと知れた中曽根総理大臣時代の経団連の会長(経済界の重鎮)であり、行政改革と財政再建に取り組んだ人物である。

「土光臨調」では中曽根康弘総理大臣に「自分の意見を絶対に通していただかないと引き受けない。そうしないと財政悪化(100兆円の借金、今の10分の1)で日本は潰れる。」と言ってすべてを飲ませるほどの説得力を持っていた。国鉄の解体や様々なことを進言してきたが、結局は政治家や官僚の談合につぶされ、政府は増税を決定し、「増税なき財政再建」は骨抜きにされた。

土光さんの悔しさはどれだけのものであったか想像に難くない。土光さんの食事をテレビで見たことがある。目刺しや野菜と少しのご飯、増税なき財政再建をするには、質素倹約が必要だと自分から実践して見せていたのである。こういうところは「徳川吉宗」に似ている。

しかし、その後の土光さんは日本をただ見守るしかなく、悔しさと人生の教訓を以下の言葉のように残している。

「私自身は21世紀の日本を見ることはないでありましょう。しかし新しい世代である、私たちの孫や曾孫の時代に、我が国が活力に満ちた明るい社会であり、国際的にも立派な国であることを心から願わずにいられないのであります…。」

「失敗は終わりではない。それを追求していくことによって、はじめて失敗に価値が出てくる。失敗は諦めたときに失敗になるのだ。」

会社も同じであろう。もう2-3年しかいない脳みそが退化した保身だけの老人が今後の方針を決め、20年後、30年後まで同じ会社で働く人間のことを考えずに、周囲にイエスマンを集める。耳に心地よい言葉しか聞き入れない。権力行使にのみ尽力を注ぎ、これからの人間のモチベーションを下げ続ける。こんなことは企業の存続に際して決してあってはならないことである。

何もしないことで減点を免れる、詭弁による責任転嫁をして、上司のご機嫌をとる。こういう人間達は自分の失敗を絶対に認めない。部下であろうが上司であろうが責任を取らせやすいところに押し付ける。

私は少なくとも土光さんの精神を絶対に忘れない。

2006年8月 1日 (火)

思考に功名心は邪魔

私は将棋を指す。しょーもない話ではあるが、自分が小学生の頃に将棋界の頂点に立っている「羽生善治三冠」と同じ将棋道場に通っていた。同じ小学生だったこともあり、何度か3つ年下の小学生の彼と指したことがある。(彼が入ってきて3か月頃であったが当然、1度も勝てずボロ負けした。)

負けず嫌いの私は、実力差に唖然としてそれ以降将棋道場に行かなくなってしまったのだが、彼がプロの頂点に立っていることを考えると、負けて当たり前だったのである。でも未来は見えないのだから判断が正しかったのだろうか?

しかし、行かなかったのは間違っていなかったと思う。その時の私は将棋のプロになることも少しだけ考えていたが、努力を繰り返し狭き門を乗り越えてプロになれても羽生にボロ負けのプロレベルだったと思う。それでは将棋の真理・本質を目指す意味がないからである。

ところで、名人位を19期も保持していた故大山康晴十五世名人の言葉に以下のような言葉がある。

「功名心をしりぞけて、平常心、不動心を持ち続けよ。」

将棋のような頭脳戦争の場合には、頂点に立ちたいという気持ちで努力をし続けないといけない世界であるにもかかわらず、その頂点にい続けるために必要なのは「功名心」は邪魔なだけであり、「平常心、不動心が必要」というのは深い意味があると思う。私も思考の際には出来るだけ「平常心、不動心」を持って思考という観点では頭脳の勝負ができればいいと思う。

2006年7月31日 (月)

目に見えないもの

先日の「真空(空)」の続きであるが、日本で初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の本の題名である。

博士は「中間子」という陽子と中間子を結ぶ力が存在することを予言した。そして実際に「高エネルギー加速器」を使ってその中間子が発見された。

博士の本の中にこのことを証明する以下のような言葉がある。

「現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。真実はやがて現実となる。」

現実から物事の対策を始めることも大切だが、やはり理想や真実を追究することがどれほど大切かを思い知らされる言葉である。

2006年7月30日 (日)

使い捨て

今日は落合恵子の「唇の飢餓」の言葉を紹介するだけで終わりたい。

「使い捨てされる前に、捨てるものは自分から捨ててやる。」

自分の気持ちが揺れている。今週は会社の昼休みに菩提寺の宗派である「浄土真宗大谷派」のお経である「正信念仏げ」を大きな声で30分かけて2度音読した。その日の午後は少しだけ心が落ち着いた。

2006年7月29日 (土)

真面目な失敗

以前、自分の所属する会社では、「逆三無主義」が横行しているということを書いた。何もしない方が貶められないし、責任も押し付けられないし、摩擦も起きない。でもそれは会社が腐敗している証拠である。自分で考え、努力し、行動し、そして失敗したことは決して恥ではないと思う。アメリカで初めて自動車を作ったヘンリー・フォードも以下のように言っている。

「将来を恐れるものは失敗を恐れておのれの活動を制限する。しかし、失敗は成長に続く唯一の機会である。まじめな失敗は、なんら恥ではない。失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む。」

きっとこれからも私は数え切れないほど失敗を繰り返すだろう。そして何度も同じ裏切りを受け、自分に責任転嫁されることを繰り返されるだろう。でも自分では「恥辱」を持たないように失敗を恐れないように物事すべてに努力して生きて行きたいと思う。

2006年7月28日 (金)

平常心是道

今日、会社の先輩にこの言葉の本当の意味を教わった気がする。言葉自体は知ってはいたが、自分の力量不足で理解できないでいた言葉であった。

今までの私は「無理して平常心を保つようにする努力をすることが道(苦労というかいばらの道、すなわち心の修行)である。だから平常心を常に保てるように心の余裕を持てるといいんだ。」というように思っていた。

その先輩は禅宗の住職さんの法話を聞いて私に教えてくださったのだが、それが「物理学」を例にしたお話だったようで、私の専門分野だったため、なんかもやもやしていた意味が少しだけ理解できたような気がする。その解釈は以下の通りである。

「真空(仏教でいう「空」)」は実は何もないわけでなく、電子や陽電子などの反対の性質をもつ粒子がぶつかりエネルギーを発散したり、逆にエネルギーから物質が生まれたりを繰り返している。ビッグバン理論というのも実は、この物質と反物質のぶつかりあいの中で、「ほんの少しだけ」物質が残ったところから宇宙が生まれた。真空でも「物質と反物質が相互作用をしている、すなわち生死を繰り返している。「生死」の中での瞬間瞬間での意識の流れが生まれたり死んだりしている。だからこそ、その瞬間の意識(今)を大切にしないとすぐに消えてしまう、だから今を精一杯生きること。」

さて自分はこういう考え方ですべての物事を「空」と思える時が来るのであろうか?欲望の塊のような「修羅、餓鬼、畜生、地獄」よりは人間に近いとは自分では思っているが、この心を持ち続けることが必要なんだ、と改めて実感した。

今週の初めにも書いたが、私にはこういうことを教えてくれる人がいる。それだけで幸せである。

2006年7月27日 (木)

マルクス・アウレリウス・アントニウス

マルクス・アウレリウス・アントニウスの「自省録」を読んだ。「自省録」は彼の日々の思索と哲学を記した図書である。百科事典によると2世紀のローマ帝国の皇帝で「五賢帝」の一人であり、「折衷主義」の皇帝及び哲学者である。

「自省録」の中に心を打たれる言葉があった。それは以下のような言葉であった。

「このキュウリが苦い?それであれば捨てればよい。道の中にいばらの藪がある?避けて通ればいい。それで充分だ。」

逃げることは恥ではない、自分から見限り、避ければいいのだと思った。

2006年7月26日 (水)

頼りにしている人

我々は頼りにしている方をお持ちだろうか?

藤沢周平の「寒い灯」に「この世の中に自分のような人間を頼りにしている人がいるということは素晴らしいことではないだろうか?」という一文がある。

私は頼りにしている人がやっと日本に戻ってきてくれた。ここ数日間特に、諦めの気持ちが強くなっていたが、彼の顔を見て、もう少し頑張ってみようかと思った。

2006年7月25日 (火)

無駄な努力

世の中には努力しても無駄なことが沢山あると思う。どんなに知恵を絞る努力をしても、権力には勝てないし、価値観や考えが違えば通じない。そして徒労に終わり、疲労感のみが残るだけである。でも自分は知恵を絞ることだけは自分の本能としてやめられないようだ。

幸田露伴の言葉に「努力より他に我々の未来をよくするものはない。また努力より他に過去を美しくするものはない。」というものがある。

現実を直視し、それに対する対応や方策を考えても相手が理解してもらえなければ、そして誤解した上で、責任転嫁などをされてはまったく正論など通じない。どんなに知恵を絞っても「無駄な努力」になってしまっては、組織をよくすることではなく、自分の修行のため、過去を美しくするための「無駄な努力」としか考えるしかないのだろうか?

2006年7月24日 (月)

理想は現実からだと思うのだが・・・

ほとんどの人が理想と現実は異なっていることだろう。その理由として私は以下の発言を取り上げる。谷崎潤一郎の言葉である。

「我という人の心はただひとり われより他に知る人はなし」

自分の心は自分にしかわからない。でも共感は出来るし、相手を思い遣ることも出来る。でも何度も書いているが世の中には「現実」からスタートできない人が多すぎる。自分なりの理想は誰にでもあると思うが、スタートラインは現実であることに変わりはない。そこから「未来をどうやって作っていくか?」ではないだろうか。

相手を責めている時間などないし、人間には誰しも間違いはあるものであるということを理解することから理想への道が始まるのではないかと思う。

例えばミスした相手を責める、謝らせる、そんなことをしたことでその人は満足するのだろうか?謝らせてもミスが起きた現実は変わらない。お互いに憎しみや憤りが生まれるだけだ。少なくとも私はそんなことをしようとも思わない。だからこそ相手に説明してわかってもらえなかったら、自分の力量不足か、相手には自分の考えを理解してもらえなかった、と考えるようにしている。

今は自分の力量不足が甚だしく、現実からスタートした自分の理想からどんどん遠ざかっている。疲れた。ほんとに身心ともに疲れた。もう限界だ。どんな言葉も悪意に取られてしまう。今日は自分の能力を生かす場所はここではないと確信した日であった。

2006年7月23日 (日)

会社内の印象深い人(その1)

今日は私の会社の印象深い人(その1)について語りたいと思う。サファリパークのような場所なので、書く人間には事欠かない。ただ、私は仕事をするにはその人間のことを良く知らないといけない、という前提があるので他の人とは視点が違うのかもしれない。

ある時の上司との会話である。状況はその日の夜から深夜にかけて資料を作る指示が来るので「担当の部長も会社で待機している。」という状況である。予定通り夜の10時頃に発注が来た。ところがその部長、帰ってしまっていた。その資料は来年度からその部長が中心となって行う新規事業で、その詳細に関しては残された中ではその部長しか知らない。

私:課長、A部長なんですけど待機をお願いしていましたが帰宅してしまいました。仕事上の責任感のない方ですね。さて、どうしましょうか?

課長:そんなことないよ、あの人、いい人だよ。

私:はあ?いや課長、私はA部長の人格のことを何も言っていません。自分の新規事業が出来るかどうかの瀬戸際に約束を破って帰ってしまうという(仕事上の)責任感のない方です、という意味で言ったんですが?

課長:だから、そんなことないって。あの人はいい人なんだから。

私:・・・・・・・・・・・・・・・・。

もう会話する気持ちも起こらず、徹夜で素人の私が資料を探し回って概略だけの体裁を整えたことは言うまでもない。その時になんとなく、この上司は「いい人か悪い人か?」の区別しか価値判断の基準がない視野の狭い人だと思った。さらに、上記のことを確信した発言が後日にあった。それは以下のような言葉であった。

「どうしても苦手な人がいる。その人のいいところが見つけられないんだ。それが見つかれば100%好きになれるのに。」(私の心理:いきなり0%から100%か、おいおい、と正直思った。)

今でも良く分からない人ではあるが、視野の狭さと判断基準は変わっていない。しかし、こういう人の良いところを見つけようとするところだけは見習わないといけないと思う。

2006年7月22日 (土)

言葉の重さ

金曜日にサッカー日本代表監督にオシム氏が晴れて決定した。私も「オシム語録」を読んで含蓄の深さや行間の幅広さに感動し、親友に勧められて一気に読んでしまった。それまではまったくオシム氏のすごさをまったく知らなかった。またオシム氏は言葉の重さも教えてくれた。戦争すら引き起こすことが可能な言葉は慎重に発しなければならないことを痛感した。なんとなく思いついた語録を一つだけ紹介し、その語録に対する私の心のねじれも紹介する(笑)。

2003年4月 故障者が続いたチーム状況について社長に発言した言葉である。

「肉離れ?ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出す時に肉離れしますか?準備が足りないのです。私は現役時代、一度も起こしたことがない。」

この言葉には、選手の自覚が足りない、走る体力が足りない、頭を使って効率的に走らない、その他にもこの表現に詰まっていると思う。足りない部分は私のサッカー知識と想像力不足だと思う。

オシム氏は現在の戦力に決して文句も言わないし、補充の希望も出さないし、常にジェフにいる選手の成長を信じていた。もちろん同じ練習もしないし、頭を使って選手を育てた。だから今のジェフの強さがあるのだと思う。もの(選手)を欲しがらないすごさは感動的である。

記者会見でも「日本は他の国の真似をしないこと、日本人の利点を生かし、「日本化」することが大切。」というまたまた含蓄のある言葉を発してくれた。これはサッカーだけではなく、「日本の品格」や「日本人の道」にも共通すると私は思った。

中東情勢が悪化する中、無意味な世界一周卒業旅行に出かけ、砂漠で「ラクダに乗って楽だ。」とバカな発言をし失笑を買い、プレスリーの真似をしてはしゃぎ、ブッシュにたしなめられるどこかの国の総理大臣に聞かせてあげたい。

閑話休題。1990年、旧ユーゴスラビアの監督としてワールドカップで各連邦国の首脳(ユーゴは当時、民族紛争が耐えない7つの連邦国だった。)から「自分の国の選手を使え。」と圧力を受けていたそうだ。

その時の判断が、本選の初戦という大切な試合にもかかわらず(しかも相手は強豪西ドイツ)、各国首脳の言いなりになってバランスの欠けたチームでわざと望み、予定通りの大敗(1-4)。あんたたちの言うことを聞くとこういうことになることを証明したわけである。

それからは周囲を黙らせ、自分の思い通りのバランスのある布陣で臨み予選を突破した上にベスト8。やろうと考えても実践できることがすごいとしか言いようがない。

しかし、最後に私の心のねじれ(?)を紹介しないと終われない(笑)。本当に野うさぎは肉離れしないのだろうか?本当は肉離れをおこしてライオンに食われてしまった野うさぎがいるのを我々が知らないだけなのではないだろうか?野うさぎの生態を知らない私にはなんとも言えない。でも決してオシム氏を否定しているわけではなく、行間の広さには感動を覚える。

でも、自分もこういう言葉で語れるとしたら、語ってみたい欲望がある。会社では今でも浮いているが理解できない人間達からはさらに浮くんだろうな(笑)。

2006年7月21日 (金)

謝ることって難しいの?

今日、「報道ステーション」を見ていてふと思った。「年金手帳が13枚ある人がいて未納期間がある結果になってしまっている。」という内容だったと思う。社会保険庁が前歴を調べもしないで退職時などに新しい年金手帳をどんどん作ってしまったことが原因らしいが、年金手帳の整合性をとることなく未納期間があるから払えない、と社会保険庁は言うばかりである。

私の会社もお役所系統の考え方が強く、責任転嫁はしても自分の間違いは絶対に認めないし、謝らない人が非常に多い。自分が間違ったことに対して謝ることってそんなに難しいことなのだろうか?人間なんだから誰にでもミスはあるし、問題なのはミスした後にどのように相手に納得してもらえるように誠意を尽くすことではないだろうか?

脱線するが、司会の古館伊地郎が画面に13枚の年金手帳を見せながら「こういう事態をどう思うか?」と聞いていたが、逆にこれにも違和感があった。意図はわかる。社会保険庁はこういうずさんなことをしているってイメージの象徴として演出したのだと。でも私には「ふーん、1人で13枚の年金手帳を持っている人がいるんだという事実がある。」ということしか感じなかった。でももちろんそれだけで終わらせてはいけない。事実を把握したのだからこそ「社会保険庁はまずは謝ってきちんと事実を確認し、国民に対して誠実な対応をすることが必要。」と考えるべきなのである。

ちなみに余談だが、未だに各地方の社会保険事務所は「アイウエオ」でも「ABC」でもなく「いろはにほへと」で順番を管理しているという噂を聞いたことがある。事実だったら数十年前から何も改善をしていないように思えて怖い(笑)。

2006年7月20日 (木)

ヘミングウェイの言葉(その1)

代表的な作品であるが、「誰がために鐘は鳴る。」の一節に以下のような言葉がある。

「人間の人間たる価値は、敗北に直面したときにいかに振舞うかにかかっている。敗北とは屈服ではない。」

根回し文化の正反対の言葉だと思う。日本人の気質なのか、会議でも黙っている人間が多く、議論を嫌う。別に発言を否定されても屈服ではないと思う。ただ、自分に知識が足りなかったためにその議論に敗北しただけである。いや、実際には敗北もしていない。自分の考えが浅かっただけであり、人格が否定されたわけじゃない。

それなのに、何故か日本人は人格まで否定されたと思い、その議論相手を感情的に憎むという心理状況になる人間が多い。

私は公私は分ける。会社の親友でも考えがかみ合わなければ議論するし、落ち着きどころに落ち着くこともあるが、決裂することもある。でもその会議が終われば一緒にラーメンを食べに行く。そんなもんだと思う。

何で仕事上の議論が人格まで否定されると思うのか、そして10年以上も憎しみを持ち続けることが出来るのか、私にはわからない部分がまだまだある。

2006年7月19日 (水)

スクール・ウォーズ

前々回の「ワン・フォー・ザ・ロード」の言葉を読んだ直後に似ているので急に思い出した言葉がある。

昔のスクール・ウォーズというドラマでの「ワン・フォー・ザ・オール オール・フォー・ザ・ワン」という言葉である。私は当時、ドラマを観ながら泣いた記憶が残っている。

このドラマは簡単に言うと高校(実在する)の落ちこぼれラグビーチームが泣き虫の熱血先生の下で心を一つにして頑張っていき、強くなっていくという内容であるが、見た人も多いと思う。

この言葉は「一人はみんなのために みんなは一人のために」という意味である。団体でやるスポーツ全般に当てはまる言葉であると思うが、会社や集団社会全体にも当てはまるものと今回改めて思った。

すなわち、個人は組織(及び業務)の効率化(みんなが協力して考えて動くこと)を目指し、組織は逆に個人を思いやる(動きやすくしてあげる)ことで個人の能力を引き出す。その結果、組織力(及び業務遂行力)が強くなっていく、ということではないだろうか?

なんかふっと思いついただけに、こじつけている気持ちもするが、まあこれも思い出した「ご縁」だと思って書いてみた。

2006年7月18日 (火)

生と死はセット

これも菩提寺の住職さんから教えていただいた言葉である。人間は生まれた瞬間から全員が「死」への道を進んでいる、という意味である。(言われてみれば当たり前だが、私も住職さんに言われて初めて気がついた。。。)

人間という俗物に限定して話を進めるが、赤ちゃんであろうが老人であろうが全員がそうなのである。でも生死の瀬戸際にいる方やそのご家族以外のほとんどの人は認識していないのではないだろうか?

「今日、自分は死ぬかもしれない。」なんてことを考えながら生きていたら気が気でない。だから考えない。その結果、その日を精一杯生きる気持ちが生まれない。

今の私は逆に意識して考えながら覚悟の上での行動をすることにしている。会社や家でも当然だが、それ以外の全ての場所と時間でそう思うようにしている。なぜかというと以前に書いたかもしれないが「自分が生きていた全ての結果が死ぬ直前に分かる」と思っているからである。命は突然失われることもある、その直前に後悔をしたくはない。

2006年7月17日 (月)

ワン・フォー・ザ・ロード

バーテンダーの世界で使われる言葉であるが、この言葉の意味を簡単に言うと、「今日という一日にさよなら(特に別れを惜しむという意味もある)」ということである。では何にさよならするのか?

みんないろんな一日を送っていることだと思う。自分の心を偽った日、辛い日、悲しい日、怒りの日、いろんな一日がある。その結果、自分を嫌な存在だと思ってしまうこともあるだろう。でも次の日は必ず来てしまう。それもいい日とは限らない。また辛い日の繰り返しかもしれない。私も毎日がその繰り返しである。

いきつけのバーで最後の一杯を飲む(私は今は肝臓を壊しているため出来ないが。)ことで、嫌な一日に、嫌な今日の自分にさよならをして、気持ちを切り替え、また新しい一日を送る活力をもらう。そんな自由な時間があったら少しは苦しみから解放されるかもしれない。そういう意味の言葉である。。。

2006年7月16日 (日)

逆三無主義

「三無主義」とは「ムリ、ムダ、ムラ」をなくすという考えのことである。会社員で知らない人間はほとんどいないと思う。労力と労働時間を短くして節約していくことが肝心で、そうすれば必ず全体の経費削減につながると同時に考える時間が生まれて、会社や人間関係がよくなってくる。

三洋電機の創始者である「井植歳男」さんの言葉だったと思うが、今でも充分に通用するというか出来ていない会社が多いと思う。

うちの会社でもこういう基本的な考え方ではなく「権力」、「残業時間」、「責任転嫁」という「逆三無主義」が横行している。そのために、社内の雰囲気は最低で、「権力に媚び」、「能力のない人間が時間がかかっているだけの残業なのに高評価したり」、「責任を押し付けられないように責任感のある仕事をしない」、こういう状況である。なんとかしようと様々な方法を考えたが、結局、権力にすべてを阻まれた。

自分の考え方は「三無主義」である。「逆三無主義」の現在の会社でどこまで自分が持つかは五里霧中の状態であり、いつかは前回書いた中田英寿ではないが、「引き際に年齢はない。」という考えに基づいて行動しなければいけない時が来るのかもしれない。

2006年7月15日 (土)

中田の引退特別番組

今さっきまで、サッカーの中田英寿選手の引退特別番組を観ていた。今の自分は頭と心のリセット中なので、自然に相手の心が自分の心の中に入り込んでくるような気がした。特に何気ない場面や言葉から彼の想いが伝わることが多かった。(その後、中田のHPも読んでみたが同じ気持ちだった。)

それに加えて、ワールドカップの予選3試合の解説内容に関しては、実際の試合中の解説者がいかにいい加減かということもわかった。

「彼のすごさ。」ということに関しては具体的な言葉では語れない。非常に理論的であると同時に哲学でサッカーをやっている感じも受けた。さらに視点や次元の違いも感じた。きっと他の選手とのあらゆる部分での次元の違いがそう私に思わせたのだと思う。

周囲との考え方の違い、「責任」や「誇り」や「覚悟」という「気持ち(という言葉を彼は使っていた)」面での次元の違う人たちの中で、自分には何ができるか、という点をサッカー人生の中で一番悩んでいたのだと思う。

その結果、諦めなのか彼自身の考えなのかはわからないが、プロからの引退を決めたのだと思った。でもサッカーを捨てるわけではないようだし、肩書きが変わるだけである。

100%の努力を続けてきた結果、彼の身心はきっとぼろぼろだろう。それにしても引き際は見事だと思う。前にも書いたが、引き際の大切さを痛感するとともに、100%での人生を続けてきた結果での引き際には年齢は関係ないこと、これも見習わないといけないと思った。私も環境はまったく違うが引き際が来ているような気持ちになった。

2006年7月14日 (金)

今日の予定

昨日は「改革をしたい。」という思いは同じ方なのに、「現実」の認識の差によってその方にはしごを外されたという非常に辛い一日になってしまった。

今日は過去のブログに書いたとおり、脳みそのフォーマットを行う予定。フォーマットであるから当然、この1か月に考えた部分を全部消すのは仕方がない。この1か月、体調が悪かったにも関わらず、また夜遅くまで様々なことを考えてきたが、全部消す。

ちなみに脱線するが将棋の棋士は1局指すごとに2kg-3kgも減るそうだ。ほとんど動かないにもかかわらず、これだけ減るというのは集中して考えることは相当のエネルギーを使うことの証明ではないだろうか?比較の対象にはならないが、私もこの1か月で体重が7kg以上減った。

病気のため7か月かけて17kg減量した上での1か月での7kgの減である。脳みそを限界まで使って知恵を絞り、身心の疲れをぼろぼろになるまで感じるほどに考えたことが結果的に7kgのダイエットになった。

今回はダイエット成功という考えでよしとする。しかし、愛する娘とお風呂に入る時に湯船の中で「肉ベッド(私の体の上で娘が寝る)」にならなくなったことが娘には悲しいらしい(爆)。世界一大切なこの娘のためにも無理はしないように、また心に誓った。

2006年7月13日 (木)

現実を認識することの難しさ

私は「現実を認識するところから自分の思考が始まる。」と思っている。たとえどんな状況であっても現実から始めないと、思考のスタートラインに立てないし、現実から始めないとずれが生じるからである。

しかし、ほとんどの人間が、過去の「経験」や「蓄積」や「思い込み」というものが、思考を「本当の現実」から始めることを邪魔し、ついつい「過去の現実」から思考を始めてしまうため、先入観が入ったり、物事の視点がずれてしまったりする。そのため、始めてもいないのに最初から不可能だと思い込んだり、憤りや憎しみや人間が持っている様々な感情が生まれてしまっている。

そうなると当然ながら、現実からの思考にも最初から感情が入ることによって正確な判断が出来なくなるのである。そして誤った判断によって人間を狂わせる。世の中には「過去の現実」と「これからのための事実」の区別がつかない人間が多い。

今日はそれを痛感した非常に辛い一日であった。

2006年7月12日 (水)

「ご縁」って何をすればいいのか?

今日はパンを買いに行ったが、そのパン屋でこれも「ご縁なのか?」と思わせる小さな出来事があった。

よく飲み屋のトイレなどに「相田みつを」の文章が飾ってあることが多いが、たまたまその店のトイレに入ったら飾ってあった。その言葉がこれ。。。

「あとじゃできねえんだよなあ いまのことはいましかできぬ。」

ちょうど、先日書いたことであるがこの連休は私にとって脳のフォーマットの最中である。フォーマットの理由も「今は権力亡者の力が強すぎ、改革は無理だから時期を待つしかないのかな。」と考えていた。その矢先に、偶然目に飛び込んできたのがこの文章・・・

あの店にいかなければ、あのトイレに入らなければ、そのページでなければ、私が気がつかなければ、頭にインプットされるはずがなかったことだけは事実。

以前、菩提寺の住職さんに「あらゆる物事がご縁です。」とお言葉を賜った。その時には「確かにそうだな。」と思ったが、特別意識していなかったのだが、こういうタイミングのよすぎる「ご縁」はどのように捉えればいいのだろうか?そしてどのような意味を持つのだろうか?素直にこの言葉どおりに行動すべきなのだろうか?

それとも・・・いや、フォーマット中だから思考は停止しよう。きっと後でその意味が分かる時や「ご縁」があるはずだ。

2006年7月11日 (火)

バブロフの犬

私は仕事人間である。色々あって現在の会社へのモチベーションはなくしているが、職場で「間違っている書類や出来事」があったり、狂っている出来事が発生したり、困っている人がいたりすると条件反射のように「自分を犠牲にしてまで踏ん張ってしまう。」のである。

自分でも気がつかなかったが、これはバブロフの犬そのものである。自分で自分のことを理解できなかったのは自分が未熟であったとしか言いようがないが、諦めるしか仕方がない。

これも教訓だ。自分で自分のことがわからないのだったら、なおさら自分以外の人間のことなんてわかるはずもない、と無意味に納得させることで片付けることにする。

2006年7月10日 (月)

幼児レベルのパワハラ

どこの会社にも存在するはずであるが、権力を持った人間が「正論」や「法や道理(論理)」を封じ込めて間違った方向に会社を進めてしまうことがある。きっと私と同じサラリーマンの方であれば一度は経験しているはずである。もしそういう経験がない方がいたら、私に教えて欲しい。

パワーハラスメントは権力や肩書きが一番だと思っている人間が世の中にたくさん存在している限りなくなることはない。ただし、権力を持った人間がその権力の強大さに気付き、謙虚さを持つことでできるだけ回避できるはずである。

また共産主義であっても資本主義であっても所属する人間には様々な要因は存在しても必ず序列があることに気がつけば、少しでも少なくなるはずである。

パワハラにもいろんな種類があるが、会社を出れば雲散霧消してしまう「会社の肩書き」を権力として行使するほど醜いパワハラはないと思う。(なんだ、自分の会社か。。。)

2006年7月 9日 (日)

約束を守ることは可能か?

人間は約束を守ることは可能なのであろうか?

待ち合わせの約束や食事の約束など比較的守りやすい約束もあれば、最初から難易度の高い約束もあるだろう。私も人生を賭けた約束をすることもある。

「しかし不安であったり、不確実であったりして約束を守ることが保証できない。」という弱気の気持ちが自分の心の中にあるときは相手に対して約束をするべきではない。

所詮、どんな人間は約束を守れないのである。ナポレオンの「格言集」にも「約束を守る最上の方法は決して約束をしないことである。」という記述がある。私もその通りだと思う。

だからといって最初から諦めることはしてはいけない。努力が約束以上の結果を出すことも考えられるからである。そういう覚悟をした上で約束をすることは決して間違っているとは思えない。私はその心がけで物事を考えていきたいと思っている。

2006年7月 8日 (土)

許容量不足

人間の器と度量の話であるが、人間によってこれほどまでに違うものかと驚かされることが多い。

ある会社の人間ではあるが、相手がミスを繰り返すために、相手を罵ってばかりいる人がいる。挙げ句の果てには「私が担当していた時にはこんなことはなかった。」と言い出す始末。

実際にはその方も「ミス連発」で他の人間が気がつかないところでフォローを入れていただけなのではあり、本人が気がついていなかっただけ(笑)。

私はその方に「相手の考え方は自分と違う。だから自分の価値観でモノを考えないようにしてほしい。相手のミスを許せないほど自分はミスをしない人間だと言い切れるのか?」と諭すように繰り返し何度も話をした。

しかし、その方の憎しみは消えず、上司(不思議ちゃん)を連れて相手に苦情を言いに行き、相手も上司を出してきて罵り合ってしまった。相手は脳みそに皺はないが、問題のすり替えがうまいため、上手いこと丸め込まれ、ご丁寧にも「余計な憤り」をお持ち帰りになってきた。それを自分より立場の低い人間にぶつけてうさを晴らすから余計にたちが悪い。

私には最初からわかっていた結果である。だから諭して止めたのであるが、結果的には私に職責という権限がないために無意味であった。

人間の器や度量は全員違うのは当たり前であるが、これだけ器や度量が狭い人間が集まっている組織も珍しい。。。

2006年7月 7日 (金)

人が機会を見捨てること

フランスのことわざに「機会が人を見捨てるよりも人が機会を見捨てる方が多い。」というものがある。

「機会が人を見捨てる」とは「気付いていたチャンスを逃した」とか「機会を与えられたのに逃げた」とか、どちらかというと「心の勇気」がなかったためにダメになってしまったことではないだろうか?

逆に「人が機会を見捨てる」とは「自分が迷っているうちに選択できなかった」とか「やってしまって後悔した」とか「あの時やっておけばよかった」ってことだろうと思う。こちらも「人間の心の勇気」の問題かもしれないが、この2つには大きな違いがあるように思える。

すなわち「やろうとしたかどうか?」である。「やろうとしたが迷った」と「逃げた」は大きく違う。人間は迷う生き物である。その場で迷うのは当然であり、迷った結果、現在の自分の置かれている環境や状況で踏み出せないこともあるだろう。ただ、やらなかったよりも全然いいと思う。

このことわざはきっと「逃げる人間」よりも「迷う人間」の方が多い、ということが言いたいのではないか、と自分では解釈する。

さて、現在の私はどちらの状況なのだろうか、と迷っている。

2006年7月 6日 (木)

余計なことを考えることが大切

人間には勢いというものがあると思う。特に若い時には自分も怖れを知らず、無茶なことをしてきたものだと思う。反省することしきりだ。

年齢を重ねることによって「経験」という「余計なこと」が人間には積み重なってくる。人間は忘れる生き物であるから全部を覚えているわけではないし、もし人間に忘れるという便利な機能がついていなければ、過去の過ちに押し潰され、その人間は確実に壊れてしまうだろう。

この「経験」というものも便利なことがないとは言えない(?)。なんといっても後ろ向きな人間にとっては非常に便利で「前例がある(ない)。」とかいう言い訳に使える事である。

しかし私はその逆も考えている。「経験」ではないが「余計なこと」を考えることで思考の幅が広がることである。「風が吹けば桶屋が儲かる。」までの極端ではないが、実際に年齢を重ね、記憶力や思考力が低下してきた時に、「余計なこと」が自分の思考の役に立ってきたことも多く経験してきた。

私は男ではあるが、仕事の他に育児や家事や障害を持った配偶者の介護なども抱えている。そういう中では今までの仕事での考え方などまったく通用しないこと。かえって邪魔な時の方が多い。逆にそういう時にこそ「余計なこと」が役立っていることを実感している。

皆さんも「余計なこと」を考え、全然関係ないときに「あれ?これって役立つんだ。」という不思議な実感を感じてみてはいかがだろうか?

2006年7月 5日 (水)

たまたま(?)

先日、菩提寺の住職さんとお話をさせていただく機会があったことは以前に書いた。その時に、住職さんが「こうして2人が会えるのは無数のご縁。」ということをおっしゃっていただいた。

もちろん、自分が病気になるといった身近な「ご縁のなさ」が会えない原因になることもあるが、住職さんからは「ご縁というのは無数に存在し、たまたまその極端な例として「テポドン」が東京に落ちてこなかったこともご縁である。」というお言葉があった。

今日、北朝鮮は7発のロケット(テポドンもあった)を発射した。もし日本のどこかに落ちればどこかで無数に存在するご縁が断ち切られることになる。落ちていない状態でも株式市場では「地政学的リスク」と称して、株価が下がったりする。(まあ数日上がっていたので調整の言い訳に使われたのかもしれないが。)

住職さんも極端な例として話しただけのことではあったと思うが、こういう偶然なご縁もあるんだな、と思った。

2006年7月 4日 (火)

思考の空白

私はどちらかというと常に物事を考えている方である。最近の思考の基本的な基準は優先順位として、「人間」、「法と論理」、「正論」の順番である。

私にとって一番楽なのは「正論」である。「物事の本質を見抜き、その目標の達成のために必要なことを順序だてて考えていけばいい」(実際は難しいんだけど)からである。

「人間」を考える時には繰り返して言っていることではあるが、自分以外の人間のことなどわかるはずもなく、個々の考えや行動パターンが違いすぎて、好意が仇になってしまったり、失敗してしまうことが多く、非常に疲れる。

しかし最近は自分で意識して「人間」を基準にして物事を考える習慣をつけるようにしている。なぜかというと、「共感」という似たような価値観を持っていない人間にとっては、自分の正論が必ずしも相手の正論とは限らないからである。

いわゆるこれが「無駄な努力」と呼ばれるものであり、相手のことを知ること、相手の気持ちになって考えること、そうやって対策を考えないと必ず失敗する。(これは間違いないと思っている。)

そんな時、自分でもやっていて、お勧めしたいのは「思考の空白」を作ることである。

とはいっても、何も考えないということではない。

もちろん何も考えないことも必要であって、私も気心の知れた方々限定で、口から勝手に出てきてしまう言葉を制御せずに本能のまま発するというアホ丸出しな話をしながらたまにやるように心がけている。

しかし本当の意味は、脳の中の余分な部分を整理してリセットし、脳の中に新しいことを書き込める空間を作ることである。まあDVD-RWにフォーマットをかけるようなものだろうか?

人間の脳みそはニューロンとシナプスの電気信号(0と1、onとoff)のやりとりで出来ている。要はコンピューターと同じ原理で脳みそは働いているのである。

だとすると脳みそにもフォーマットをかけることでコンピューターと同じように計算能力(人間の場合には「思考能力」)が上がるのではないだろうか?

少なくとも自分の場合には意識してこれをやることで、思考範囲が広がっているような気がする。

2006年7月 3日 (月)

ご縁とイビチャ・オシム氏

「物事は現実をありのまま受け入れることから始まる。」ちょうど私が先週、菩提寺(浄土真宗)の住職さんにお話をしていただいていたときに言われた言葉である。

「現実、事実をありのまま受け入れること。自分の理想や思い込みとの乖離が人間の俗物としての様々な感情を生む。」(この言葉自体は何度も書いてきた。)

同じ事を今度サッカーの日本代表監督に就任した「イビチャ・オシム氏」が言っていた。「日本人は現実を認識すること、日本は日本人の特性を生かしたサッカーをすべきであり、それ以外にない。さらに世界一になりたいなら自分を監督にすべきではない。」

なかなかいえる言葉ではないと思う。見栄っぱりな人間や自分の価値観や人生観だけでものを語る人間からは、こういう言葉は出てこないと思う。

先日、親友に「オシムの言葉」と「オシム語録」の存在を教えていただいた。これもご縁であり、菩提寺の住職さんに言われた言葉とオシム日本代表監督の言葉が同じ、これもご縁であろう。

何が正しいのか、そして正しいことは存在しないのか、私にはまだわからない。でも事実は事実であり、それ以外のなにものでもない。私は「ご縁」という言葉を大切にしていきたいと思う。

2006年7月 2日 (日)

フェルナンド・ド・ロハスの言葉

フェルナンド・ド・ロハスの「セレスチーナ」の中に以下のような言葉がある。

「狂気への第一歩は自分が賢いと思うことである。」

世の中にこの言葉の意味がわかる人間がどれだけいるだろうか?自分が賢いと思う人間はきっと「自分は正しい」と思っているのではないだろうか?その「自分は正しい」と誤解する心が「狂気への第一歩」になるのだと思う。自分の会社にも周囲にもそういう人間は多くいると思うが、自分だけは「賢い」とは思わないことを心がけ、「狂気への道」を進まないように努力していきたいと思う。

2006年7月 1日 (土)

残業至上主義と無能管理職

突然ですが、みなさんはどちらの人間を評価するだろうか?(年齢は同じ。勤務時間を8時間と仮定)

1.「A」という仕事を4時間でこなし、残りの時間を遊んで過ごす社員

2.同じ「A]という仕事を12時間かかり、4時間分の残業代を会社に請求する社員

私は当たり前だが「1.」を評価する。ただし、その遊んでいる残りの4時間で別の前向きな仕事をしてもらい、もっと業務の効率化に勤めてもらうようにモチベーションを上げる。もちろん評価や給料にも反映させる。「2.」の人間には「残業代を支払わないだけでなく、逆に夜遅くまでの電気代などを請求したいくらい。」である。

今の私の会社は「残業至上主義」である。管理職が「残業時間」で仕事をしているかを判断するおばかである。残業時間で仕事の優秀さを判断するのなら、上司などいらない。タイムカードが1枚あればいい。さらに残業時間で判断することは「部下の仕事を把握していないことを証明していることではないかと思う。」なんとまあ遺跡のような会社であろうか。。。

人間には仕事以外に様々な顔があることは今までに何度も書いてきた。母親、父親、子育て、家事、育児、介護のような違った顔を総合して1人の人間が出来上がっているのである。

そういうことを考えながら、限られた時間で優先順位をつけ、効率的に時間内で仕事をこなしている人間も周囲にはいる。こういう社員が評価されないことを非常に不幸に思う。

2006年6月30日 (金)

自己中であるからこその人間

このタイトル、「人間は全員自己中」とどちらにしようか迷った。「鶏が先か卵が先か。」と同じではないのかと。俗物である人間だからこそ自己中心的発想をするのか、自己中心的な発想をするから俗物である人間なのか。

人間が俗物であるなら、六道の中で「人間」から「天」に行ける様に修行すればいい。すなわち自己中心的な発想をやめることが修行であり、そうすれば「天」にいける。

しかし、「天」に行ける人間が限られているのであれば、人間という俗物のまま一生を終えるしかなくなる。そうなると諦めの気持ちも生まれてきてしまうかもしれない。そしてさらにエスカレートした俗物になっていく。

さて、考え方としてはどっちなんだろうか?私は前者を選び、修行を続ける方を選ぶ。

2006年6月29日 (木)

忙しぶる人々

世の中には「忙しい、忙しい。」が口癖のような人が沢山いると思う。でも本当に心底忙しいことめったにあるものではないのではないだろうか?何度か書いているが、私の配偶者は脳出血によって左半身の感覚がない。しかし外見的には普通に見えるので、満員の通勤電車の中で突き飛ばされたり、時には「のろのろするな。」という罵声を浴びせられたりひどい扱いを受けている。そういうことをする人は障害の有無に関わらず普通の人にも同じ事をしているだろう。

それにしても、その人達は何でそんなに急いでいるのだろう。きっと会社に遅刻する、だとか営業先に遅れるとかその程度ではないかと思う。その本人達にとっては重要なことなのかもしれないが、他人を突き飛ばしたり罵声を浴びせていくほどの忙しさとは思えない。

そもそも自分がいないと組織が回らないとか自分が組織を支えていると思っている人間がいたとしたら、その人は「大勘違い人間」であろう。どんな立場、どんな権力の人間でも代わりなんていくらでもいる。それは総理大臣や大統領でも同じだ。決して代わりになれないの人間の命ではないだろうか?

よく言われる言葉ではあるが、「忙しい」は「心を亡くす」と書く。きっと「忙しぶる人々」は人間の心を亡くしているんだと思う。こういう考え方で大目にみたいと思うが、今は私自身も心の修行不足のため無理。

いつになったらできるのだろうかは、私にもまったくわからない。。。

2006年6月28日 (水)

説法

私の会社には「人間としての器」が限りなく小さく、「度量もまったくない」人間がいる。このブログでは「不思議ちゃん(約60億人いる世界で一番自分が不幸と考えている)」と呼んでいる。

今週、あるイベントがあったために、ただでさえ小さな器が溢れきり、上司や部下への信頼関係がないために、ひたすら部下に仕事の指示と称して意味不明な喧嘩をふっかけ、「職責」(課長と課長代理など)の違いを最大限利用して部下や上司に責任転嫁、八つ当たりして邪気を撒き散らしていた。

私もまた「赤ちゃん菩薩」であり、「こだわりのなさ」、「ありのままを受け入れること」、「流されるまま流されること」を考え「憎しみ」などという邪心を出来るだけ持たないように行動するように努力していたが不思議ちゃんの邪気は尋常なものではなかった。(結局私も週末に家庭に少なからず邪気を持ち込んでしまった。反省せねば。。。)

結局、同じ部署のほかの方々が「積年の怨み」と今回の邪気によって「感情のぶつかり合いの大喧嘩」になってしまった。不思議ちゃん(その喧嘩相手はできるだけ冷静になろうと努力していたが)は自分が何を言っているのかわからず「相手の気持ちがわからない。」と言っていたが、当然ながら違う人種なのでわかるはずもなく、特に不思議ちゃんが「その場しのぎ」で言っていた言葉の意味を理解しようと考えていた部下の方がものすごく辛そうであった。

そこでその日の夜に「赤ちゃん菩薩」レベルの私が不思議ちゃんに説法をしてみた。時間は4時間。彼は話の終わりに「心が晴れました。もっと心に余裕を持って部下に優しく接します。」と私に話していた。

しかし私は彼は私の話を理解できるはずはないと最初から思っていたので、不思議ちゃんの心の変化を「今日は晴れ、明日は曇り、あさってはどしゃぶり、3日後には元の木阿弥。」かなと想像していた。無駄だと知りながらも他の方々に被害が及ばないように、私からの一度だけの慈悲の心であった。

しかし私の予想は大ハズレ。翌日からもさらにパワーアップして部下に邪心のかたまりのように「職責」を利用した喧嘩を売っていた。「今日は晴れ、曇りや雨はなく、いきなり翌日から元の木阿弥。」であった(笑)。まさに不思議ちゃんの本領発揮で、一晩寝ると全部を忘れるらしい(笑)。

まあこんな人間も世の中にはいるものだ。共感できない相手の気持ちを考えるという無駄な行為をやめるための事例として書かせていただいた。

きっと不思議ちゃんは「六道(仏教用語で6種類の世界のこと)」(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の中で「今の段階で畜生や餓鬼の世界にいて自分を磨くことをしなければ地獄に落ちるんだろうなあ。」と感じた。それもまた不思議ちゃんの人生だ。私は知らん。

みなさんも自分が「六道」のどの位置に自分がいるのかを考えてみてもいいのかなと思う。

2006年6月27日 (火)

ヘルマン・ヘッセの言葉

「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉があるが、これは考え方や価値観が共感できる人間同士しか通用しないと思う。

ヘルマン・ヘッセの言葉に「勇気と節操を持っている人達は、他の人たちから見ると、いつだって非常に不気味なものだ。」というのがある。

今の私の置かれている環境はまさにその通りである。分かってくださる人は分かってくださるが、非常に存在や扱いに困っているために脅え、憎しみそして貶めたり、攻撃を仕掛けてくる人間達がいる。

私自身はまったくこだわりがなく、職責の秩序は守るし、肩書きにも興味がない。会社から出れば、社長であろうとヒラ社員であろうと1人の人間であることに変わりはない。でも世の中にはそうは思わない人間が多い。会社から出ても肩書きにこだわり、会社内でも「勇気と節操」を肩書きで押さえ込もうとする。

会社というのは人間の本性が現れる不思議な場所だと思う。

2006年6月26日 (月)

頑張らないことが大切

身心が健康な方はある意味で冷静に自分の考え方に基づいて行動していると思う。しかし、その行動がすべての人間にプラスに働いているとは私には思えない。逆にマイナスに働くことの方が多いのではないだろうか?

憤りや憎しみの気持ちで接したところで、お互いの人間関係にプラスになることはなく、自分だけでなくほかの方の心にも偏見や邪心を植え付けてしまったりすることも多い。自分が優しい心で接しても相手がそう受け取ってくれないことも多い。だからといって相手が悪い、とは思わないことである。

自分以外の人間のことを理解しようと頑張っても、魂が入れ替わらない限り無理だし、私も最近、頭で考えていたためだとはいえ、自分の心でさえ、自分で理解できないことがわかってきた。自分で自分のことを理解できないのにほかの方の考えを理解できるはずはないと思う。ただ、生き方、考え方、そういうものを共感できる方々は沢山いる。私の親友もそういう方々ばかりである。

理解しようとする努力は必要だし、そのためには自分の価値観による「色眼鏡」を捨て、本当に相手の立場で、相手の環境で、相手の性格や考え方などを総合的に見ることが必要だと思う。

では実際にでは人間はどう気持ちの整理をすればいいのだろうか?よく言われることだが、「うつ状態あるいはその回復期」の方には「頑張って。」という言葉は禁句(「責任感を持って頑張っている人にこれ以上何を頑張れというのか」という意味)と言われている。しかし以前にも書いたが人間は「波動」で動いている。人間はどんな状態であるかに関係なく、私は無理をしないこと、頑張らないことが大切なのではないかと思う。

身心が健康な方でも嬉しかったり辛かったり、という気持ちの波が誰にもあるだろう。定規で線を引いても顕微鏡で見れば線ではなく、波を打っているだろう。人間の心はそれと同じで、常に「波動」である。

そういう人間の「波動」をありのまま受け入れることしか人間が自然に生きる方法はないのではないだろうか?相手によっては自分の価値観による反応を期待をしないこと、すなわち自分と共感できない人間、相手の考え方が想像も出来ないほど違う人間の気持ちを無理やり考えるような無駄な頑張りはやめ、力を抜いて自分の今できることだけをやればいいと思うのは私だけだろうか?

2006年6月25日 (日)

私は幸せ者

くどいが人間は俗物である。他人の評価も気になるし、職場では肩書きも気にする人間も多く、「セクハラ」や「パワハラ」が横行している会社も多いだろう。

そんな中で無意味に頑張ることに何の意味があるのかと思う。力を抜くこと、そして今の自分がどんな状態であってもそれが「自分の100%」と認識することが重要であると考えている。

ただし、身体が健康でないと健全な考えは生まれない、健全な心を持たないとゆがんだ考えが生まれる。

お坊さんですら、身体が健康でない場合には修行をしない(無意味)であるというお話も私の親友から伺った。

私にはちょうどいいタイミングで私が苦しんでいる時にその時々にあった内容のアドバイスや考え方、様々な媒体を教えてくださる方がいる。それだけでも自分は幸せものだ。

2006年6月24日 (土)

自分は生涯俗物

何度も書いているが人間は感情を持った生き物である。まだまだ足を踏み入れたばかりではあるが、「親鸞上人」は自分のことを「俗物中の俗物である。」と書いているとのことである。私はこの話しを自分の「菩提寺」の住職さんに自分の環境を長い時間、聞いていただき、そしてありがたい教えを伺った。

それに影響されて、現在「歎異抄」と「教行信証」を読んでいる。しかし内容は私レベルには理解できるレベルではない。

浄土真宗を広め、新興宗教が生まれては消えていく中、1000年以上も続いている親鸞.上人という仏教の一派のお教えが今も信じられていることをどのように考えればいいのだろうか?

私はまだまったく答えが出ないし、一生でないだろう。でも個々の人間が俗物であるということを認識することから世の中がよくなっていくことになっていくのではないだろうか?

脱線するが、宗教戦争はお互いに信じきっている唯一の正義のぶつかり合いなので、非常に根は深いと感じている。

2006年6月23日 (金)

「金(権力)ならある」と「金(権力)しかない」の違い

「金ならある。」と「金しかない。」この言葉は似て非なるものである。「金ならある。」は「自分の価値観でしか物事を判断できない自分だけの優越感」を感じ、「金しかない。」はなんか「残高に固執するみすぼらしさ」を感じる。そういう方々はお墓にはお金や権力を持っていけないことをわかっているのだろうか?

世の中は金や権力で動くものではないが、家族を守るために最低限の収入を得ないといけないと思っているのは私も同じである。

その一方で、若くしてリタイヤ生活を送る人が多いのはどうしてだろうか?きっとこの世の中の格差社会やストレスの息苦しさに耐えられなくなった、あるいは自分のやりたい道を見つけたのではないかと私には感じられる。

私も今の自分に固執することなく、こだわりを持つこともなく、事実をありのまま受け入れ、耐えられなくなったら「逃げる勇気」を持ちたいと思っている。逃げることは決して恥ずかしいことではない、逆に我慢して周囲に邪気を撒き散らす方がよっぽど恥ずかしい。

2006年6月22日 (木)

審判の心理

ちょっと古い話だが、サッカーのワールドカップの「日本vsクロアチア戦」の話を審判の心理で書いてみたい。

前半、日本はPKをとられた。奇跡的なセーブで川口はこれを押さえた。ここで審判の心理としては「平等にしようかな?」という考えが働くはずである。実際に、状況は違うもののPKは両方のチームに与えられることが多いのはその心理ではないかと思う。もちろん平等にする必要はなく、誤審をしなければいいのであるが、実際にはPKの与えられ方を見るとそういう判断が働いてしまっているような気がする。

結果に「もし」はないが、そういう審判の心理を読んで、日本がFWをドリブルでペナルティエリア内に切り込める玉田や巻を後半の最初から一気に投入したらそういうチャンスが会ったのかもしれないと私は思った。

審判も人間であり、当然間違えるのである。。。自分は「何事も間違えない、自分の言うことはすべて正しい。」と思っている人間がいたらお目にかかりたい(というか自分の会社の中には沢山いるが。)。

彼らは俗物中の俗物で「六道」における「餓鬼」や「畜生」のような存在であろう。そういう奴らの言うことに影響を受けて、自分まで邪気に染まっては、他人に伝染させてしまうだろう。自分はそういう気持ちを持たないように心がけたいと思う。

2006年6月21日 (水)

謙虚な気持ち

人間は基本的に愚かな生き物であり、おだてられるとうぬぼれる。私も人間である以上、同じだろう。しかしその「うぬぼれ」には表裏一体の「謙虚さ」が存在する。

うぬぼれるだけで自分の考え方をゆがめてしまうか、謙虚な気持ちを持ち続けることができるか、それが人間として重要なことだと思い始めている。

取り返しのつかないこと

世の中には取り返しのつかないことが存在すると思う。よく「信頼を失うことは簡単である」といわれるが、要はそういうことである。信頼を取り戻すにはどれくらいの努力が必要なのだろうか?

私には今のところ答えはない。なぜなら自分は基本的に自分以外の人間のことを理解できないからである。最近、自分のころすら理解できていないこともわかった。そういう意味では信頼回復のための努力をどんなにし続けても相手の受け取り方は自分の誠意や考えとは違うかもしれないので信頼を取り戻せる保障はない。

「うっかり発言」や「悪意に満ちた行動」とかの具体的なことにかかわらず、一生取り返しのつかないかもしれない。信頼を取り戻せたかどうかは「自分が死ぬときにその人がそばにいてくれるか、本当に自分の死を悲しんでくれるか?」それで初めてわかるのではないかと思う。

私もうっかりした一言ではあったが、取り返しのつかない一言を発してしまったことがあった。言ってしまったことはもう取り返しがつかない。しかし相手に伝わるかどうかにかかわらず信頼を回復するために精一杯のことはしたいと思う。あとは、私が死ぬときにその人がそばにいてくれることを祈るだけである。

2006年6月20日 (火)

人間観察

いまさら遅いといわれるかもしれないが、親友に教えられ「チャングムの誓い」にはまっている。毎週、欠かさずビデオに撮り、繰り返し3回は見ている。(これからも時々引用するつもり。)

第33話の中でチャングムは病気の人の病名を自分の持つ知識と患者さんの現在の症状だけから即座に診断を下した。しかし実際には「患者さんそのもののすべてを理解することによってのみ初めて診断可能な病気」であったため彼女は間違ってしまっていた。

私も同じであった。頭で考えること、知識や経験だけで判断すると、事実とは違う自分の理想(こうあるべき)という「わな」にはまる。まずは事実を理解するのであって、その事実と自分の考えることが違うことから人間の魂には憎しみや憤りや悲しみや喜びが生まれる。その感情が人間の判断を狂わせるのではないだろうか?

そういう感情を人間というものは持たされている。せめて「事実・現実をありのまま受け止める。」ことから始め、次に「人間を観察する」ことで常に軌道修正しながら行動をとっていきたいと思った。

2006年6月19日 (月)

愛することを愛すること

○○を愛している、好きである、という人は世の中にたくさんいるだろう。というか何かを愛していない人間の方が少ないのではないだろうか?

でも私はもう一歩気持ちを踏み出したい。「○○を愛している人を愛したい。」ということである。例えば、私は愛娘を愛している、そしてその娘を愛してくれているほかの人も愛したい、そういうことである。

言葉で言うことは簡単だが、実際に出来るかどうか、それはこれからの私の心がけにかかっている。

2006年6月18日 (日)

天使の言葉

続けて愛娘の話である。先日、辛い顔をしていた娘が私にかけてくれた言葉。

「パパが悲しそうな顔をしていると私も悲しい。パパが笑っていると私も笑う。」

私には世界一の医者がそばにいた。私の辛さや魂の叫びを一番感じてくれていたのは娘であった。この娘のためにも心から笑わなければと思った。

2006年6月17日 (土)

愛し君へ

私には自分の命よりも大切な愛娘がいる。毎日必ず抱きしめることを忘れない。

抱きしめた時の体温を心で感じ、同時に自分が生きる意味を感じ、どんな辛いこと、苦しいことにも耐えることが出来ている。

今、私がすべてをありのままに受け入れられているのは、娘のおかげ。。。どんなに感謝しても足りない。本当にありがとう。娘こそ私の女神様である。

でも娘が悪いことをした時には愛を込めてきちんと叱るのだがすぐに泣かれる(笑)。

2006年6月16日 (金)

頭の体操(脱線)

私は一昨日、「ヤクザ社会」に似た部署に配属になった。以下は私の「頭の体操」である。何故「似た」という言葉が入るのかと言うと、「ヤクザ社会」は組長を始め、組織が所属員を守る。そして家族も守る。だからこそ、鉄砲玉は後のことを考えずに特攻隊長になれるのであるが、うちの会社には責任を取らないし、守らない。逆に「池に落ちた犬を叩く」ように貶める。こんなことでは誰もついていかないが、まあこういう会社もあると思って笑って読み流して欲しい。

部 長:「組長」-判断材料が俺についてくるかどうかだけ。仕事が有能か無能かなどは関係ない。

次 長:「番頭」-有能な事務処理能力を持つが、残念なことにいつも各課の尻拭いをさせられている。

課長A:「若頭」-考えはほとんど間違っているのだが、でも組長の権力(虎の威)を借りて高圧的な態度で周囲を威圧して押し切る。責任転嫁、ミスを絶対に認めない。

課長B:「鉄砲玉」-武器(知恵)も持たずに事件(トラブル仕事)があると大暴走。何も考えていないので、ほとんど頓挫。尻拭いは周辺。でも本人は優秀だと思っているから笑える。

課長C:「チンピラ」-無能、その場しのぎの発言、そして大パニック。そして誰でもいいから責任転嫁。当然周囲から呆れられる。ちなみにこのブログでは「不思議ちゃん」のこと。

ちなみに私は病気から復帰したてであるが、血を流していない(外科手術のことか?)ということでチンピラが流した「仮病疑惑」まであるそうだ。やっぱり「ヤクザ社会」だあ。。。私は人間、向こうは野獣。そういう意味ではまーったく気にしないけどね。私も野獣にはなりたくないし。。。

でもうちの会社には実は親会社がある。組長も実は「親会社の組長」の虎の威を借りているだけである。今回、面白いことに親の組から異動で本家の「若頭」がやってきた。「課長A」などは本家の「若頭」だけに平身低頭するんだろうな。想像するだけで笑える。

2006年6月15日 (木)

部署や組織も人体と同じ

これは最近感じ始めたことである。ある部署の事を考えていて、その業務ライン(すなわち体)が歪んでいるために起こっている現象なのではないかと。

その他にも以前に書いた「世界一不幸な不思議ちゃん」がそこの課長であったり、その「不思議ちゃん」のえこひいきでろくな仕事もしていないのに評価されている人間がいることが大きな原因でもあるが。

ただ、それを除けば能力のある方々が責任感だけで業務量の多さに耐え、踏ん張って仕事をしているのだが、予想以上に苦しんでいて、耐えていて、結果として諦めの境地に近くなっている。その張り詰めた糸がプツっと今にでも切れそうなほど、魂の叫びが伝わってきて、自分の心まで痛くなる。また、不思議ちゃんは部下にも責任転嫁をするので無理もないが、不思議ちゃんや組織を憎んでしまって、頑張っているが、「負のエネルギー」に満ちている。

負のエネルギーは自分の身心を消耗させるだけでなく、自分の考えも歪ませてしまう。これはその人だけではなく考え方は違えど、残念なことに普通に起こってしまう。

どうやったら治るのだろうか?

仏教における身心と同じで、体が健康であること、すなわち部署や組織を邪気に満ちないように業務ラインを整理すること、邪気の原因である「不思議ちゃん」や「えこひいき」を排除して、負のエネルギーが生まれないような環境を整備し、組織を健康な体勢にすること。

そのことで健康な体から生まれるのと同じいいモチベーションやプラスのエネルギーが生まれ、気持ちよく良い仕事ができるのではないかと思う。

実際はどうなのだろうか?もう無理レベルまで来ているのだろうか?対症療法で利かなければ人体と同じで根本治療をするしかないと思う。

そういうことを考えるのが経営者の務めなんだけど。。。

2006年6月14日 (水)

明日

私に「サファリパーク」というか「ヤクザ社会」への強要が執行される。もちろん権力の亡者には逆らえないからであり、自分にそれに対抗する健康という体のエネルギーも心のエネルギーも存在しない。こんな状況では、あるがまま、流されるまま、色々浮かぶがこういう考えで漂流するしか私には手段が無い。

しかしその一方で少ないながらも信頼してくれている方々がいる。その信頼を勘違いしないように自分でも注意しないといけないが、自分のあるがままの姿と心の内をすべてさらけ出して、相手がどう感じてくれるか、それだけ。

自分の「あるがままの心」と「こだわりのなさ」を見ていただき、居場所が悪ければ遠慮なく去っていただいても構わない。それはその人が感じることであって自分が何かを言うべきことでもなく判断すべきことでもない。居心地がよければそれで友人関係や仕事関係でもお付き合いを続けていただければいいし、そういう人たちが集まれば負のエネルギーで邪心(嘘で相手を貶める、責任回避、悪口、等)が溜まることも少なくなると思う。

もちろん自分にうそはつけないという自分の考え方の根本もあるし、自分の健康すら取り戻せていない状況でバランスを確保することは難しいが、それもどうなるかわからないこれからの未来の出来事を気にしても仕方がない。今、何かを考えてもなるようにしかならない。

ただ、自分の考えを曲げないため、お釈迦様の教えを守るため、そして家族を守るため、健康回復を最優先しなければならない。健康な体でないと良い考えは浮かばない。明日からは「法と道理」や「真の思いやり」を常に忘れないように、両手にバランスを取るための手数珠をつけることにした。

しかし、実は、自分に嘘はつけないため、こんなに貶められても「職責」に応じた責任感を「何故か」感じていて、相手の期待とかそういう問題でなく、自分の修行の心構えとして生まれてきてしまっている。そのため復帰早々無理をしすぎて、体が悲鳴をあげている自分がいる。

まだまだ私には割り切れない。修練が足りないんだなあと痛感した。

2006年6月13日 (火)

ソレラシステム

ソレラシステムとはスペインのシェリー酒(酒精強化ワイン)を造るときの独特の方法である。簡単にいうと年代の違う元のワインを継ぎ足して、1本の複雑な味わいを作り出す方法である。何かに似ている。何だろう??

組織における業務の継続性と同じではないか?きちんと古い年代から若い年代に仕事を継続して引継ぎ、情報共有をしていく。その中で効率的な方法を考え、業務改革をしていく。

こうやって組織に必要な人材が育成されていくのではないかと思う。ちなみに私の所属する会社ではそんなことはなんも考えていない。私は14年間勤務しているが、その間に9部署異動し、課長は15人も代わった。最短は6か月で課長が代わった。部下の人数は数え切れない。ただ、半年や1年で教えては異動され、教えては異動され、を繰り返されてきた。教えた人間が将来、指導したことを生かすのであれば意味があるが、職種が違うため、生涯同じ仕事をすることはないだろう。

こんなことで組織が上手くまわるはずが無い。ほとんどの人間がうわっつらだけしか理解しておらず、特に新人に近い若手職員にその傾向が強い。もっと物事の本質を理解してほしいものだと心から思う。

ソレラシステムはシェリー酒に複雑な味わいを作り出すために考えられたスペインの知恵である。そういう知恵を仕事に生かす連想も強ち間違っているとは思えない。

2006年6月12日 (月)

信頼を失うこと

よく言われる言葉だが「信頼は一瞬で失うが取り戻すのは難しい。」というのがある。「信頼」という無形なもの、最近では権力や金が信頼だと思っている人間も多く、非常に軽視されやすい。でもこれが「人間の心」においては大きな意味を持つことを分かっている方がどれだけいるだろうか?

実際に信頼は取り戻せるものなのだろうか?私にも結論は出ていないが、今の段階では、「悪意の有無にかかわらず失うのは簡単」だろうと思う。

逆に完全に取り戻すことは無理で、自分が死ぬとき、すなわち生涯を終える時に「どれくらい取り戻せたか?」がわかるのではないかと思っている。

2006年6月11日 (日)

魂の重さ

人が亡くなるときには体重が若干(多い人で数百グラム)軽くなるということを聞いたことがある。そういう実験も見た記憶もある。きっとそれは「魂の重さ」なのだろう。アインシュタインの相対性理論の有名な公式「E=mc2」によると300グラムの重さから取り出せるエネルギーは相当な大きさであり、詳しく計算してはいないが、太陽が発しているエネルギーの数秒間くらいのものは十分にあると思う。人の魂にはこれだけのエネルギーが詰まっている。このエネルギーを負(憎しみなど)に使って消耗するか、正に考えエネルギーを蓄積するか、それが修行の心構えだと思う。私は負には使いたくはない、と思う。

2006年6月10日 (土)

アンナ・カレリーナと赤ちゃん菩薩

アンナ・カレリーナ、彼女はトルストイの小説の主人公である。基本的には恋愛小説なのだが、私は冒頭の一文が内容とは関係なく頭から離れられない。

「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである。」

私は人間は波動の生き物であると思う。身心の波が揺れ動く結果が感情や行動で表現されるものであると。基本的に人間という生き物は自分が不幸になると他人の不幸が見えなくなる。もちろん冒頭の文章のように不幸の形もみんな違う。

ありきたりな表現ではあるが、人間の数だけ悩みがあり、不幸がある。本人にしかわからない苦しみもある。私の身近にいるが、外見では判断できない脳出血の後遺症のような肉体的・精神的な苦しみもあれば、逆に大したことはないと他人が思うようなことであってもその人間の価値観の中だけでの苦しみもある。他人がどう思っているかにかかわらず、本人が不幸だと思えばそれはその人にとっては不幸なのであり、不幸じゃなければ不幸じゃないのである。

その本人にしかわからない苦しみを、辛さを、いかにして他人(「自分以外の人」という意味)である自分が理解できるか、本当に相手の立場で考えることができるか、それに「真の思いやり」が隠されていると思う。

私はまだ人間という俗物であり、「許せない」と思うこともある。また自分を優先して考えてしまうこともある。でも憎しみには負のエネルギーしか生まれない。それは自分の身心の修行にとって邪魔なものであり、結果として魂のエネルギーが減るだけでなく、周辺に邪気や憎しみ、怨み、そねみ、などが伝染していくことことになる。これが果たしていいことなのだろうか?

私はまだ「赤ちゃん菩薩(悟りを求める者)」であるからどこまでできるかわからない。でもそれが悟りの途につながると信じて何も見返りを求めることなく、そして一番自分が辛い時にこそ、自然にさりげなく周りの方々に手を差し伸べてあげられればいいなと思う。

2006年6月 9日 (金)

新しいバランス主義

以前、お釈迦様の最後の言葉の時に自分の物事の考え方が「物事の本質を見極めた正しい理想主義」と「理論とルール」のバランスで判断することが多いと書いた。しかし、仕事に関してはいろんなものを失ったことによって、これからは新しいバランス主義をとるしかなくなった。

それは「真の思いやりの心」と「道理(論理)や法(ルール)」をバランスさせて判断することである。この考えに行き着いた過程に関しては会社の環境等の変化など色々あったが、現在ではこの方法が自分の修行にとって一番いい方法ではないかと悩みぬいた結果であると同時に自分の人格が崩壊しないためにはこれしかないと判断した。

本当にこの考えを貫き通せるかはまだわからないが、健康を取り戻すまでは自分の魂のエネルギー不足のため、この方法を選ぶしかない。

2006年6月 8日 (木)

「勘繰る」から「下衆」になる。

人間とは不思議なものだと思う。私の会社には「自分が世界一私が不幸な人間だ。」と恥ずかしげもなく発言できる不思議な人がいる。こういう言葉が出てくること自体、私には理解不能なのだが、そういう考え方だから「どんな汚く醜い嘘をついても自分より不幸な人間を生産するために他人を貶める。そうすれば自分は世界で二番目の不幸に昇格(?)できると信じているのだろう。そのためなら自分は何をやっても許されると考え、他人を貶める。でもその「不思議ちゃん」は何人もの他人を貶めても結果的に自分が世界一不幸な考えは変わっていない。

先日、ある方に「下衆の勘繰り」という言葉は逆だ、「下衆だから勘繰る。」のではなく、「勘繰る意識」が人間が「下衆」に落ちていくんだと言われた。また同時に、一度「下衆」になってしまったら人間という愚かな生き物は「勘繰り続けるんだ。」ということも教わった。

「権力」も同じだ。常に貶められる恐怖と闘っているから相手を無理に押さえつけようとする。そして権力は最後に壊れていく。これも同じような悪循環だと思う。

私にはこの言葉の本当の中身がまだ理解できていないが、人間の心の本質に迫る話であることは感じる。

神様から授かった命。きっと意味はあると思う。ただ今の私には生き続けることが幸せかどうかはまだわからない。でも少なくとも未だに世界中で食糧不足、医薬品不足や様々な理由でやむを得ず助けられない方々が沢山いることを知っているので、「自分が世界一不幸だ」なんてことは想像もしない。

2006年6月 7日 (水)

心のバリアフリー

私はブログを書き始めた時はある内臓を壊して病気休暇中であった。体の調子も少しずつよくなってきた兆候がみえ、早く仕事復帰をするための「頭のリハビリ」だと思って、この日記を書き始めた。(だいぶ脱線しているが。。。)

今まで私的なことなので書かなかったが、私の一番身近な存在である配偶者が4年少し前に20代前半で「脳卒中」で倒れ、体の半分の感覚がないだけでなく、しびれや痛み(医学用語では「視床性疼痛」という)などによって、常に健常人では我慢できないほどの肉体的にも精神的にも苦労する人生を強いられている。心の中も相当苦しんでいる。しかし、私は同じ病気にはなっていないため、本当の意味での配偶者の「辛さや苦痛、我慢」などが理解できているとは言いがたい状況が続いている。非常にもどかしいが本当の辛さを理解できない力不足を感じ、理解できない自分が情けない。

私の配偶者と前後して、会社でも「真面目さと責任感と気力」でぼろぼろになるまで仕事をした結果、似た環境になった方がいる。その方が先日、会社に顔を見せに来てくれるという話を聞いた。少し話すことができると思い、その方に会ったらどんな話をしたらいいのかを数日間悩んだ。私にはすぐそばに同じような環境にある配偶者がいるので、外見的な状況だけであれば理解することはできる。

老人や障害を持っている方の中にもいろんな方がいることを配偶者から聞いている。ひたすら「自分が弱者」であることを強調して「同情」を買う、「当然の権利」として様々なことを自分から要求する、そういう方々もいることは事実のようである。

閑話休題。その方と会った時、私の病気など比較の対象にもならない病状でありながら、その方の最初の一言が、私の名前を呼んで「○○、大丈夫か?」の一言であった。その言葉を聞いて、私は自分の言葉が一切、出なくなってしまった。ただ、涙を見られたくないために下を向いて「両手でその方の手を握り締めることしかできなかった。」

その後、私はしばらく泣き続けた。これが「清廉な心を持った真の思いやり」だと思うと、私はいったい何を見てきたのだろう。そして自分の心の器の小ささを痛感し、私もこの気持ちを心の底から持ちたいと思った。いや持っていたつもりであっただけで、本当は持っていなかったのだ。大切なのは自分との比較ではない、本当に相手の立場で考え、その心を理解する気持ちであると。。。

しかし、同時に本当にその方が会社に責任感を持って復帰するために必要なことは「同情や自己満足」ではないと感じていた。それが自分の心の中に生まれた「心のバリアフリー」という言葉であった。

例えば、その方が書類を運んだり、コピーなどを自分でとろうとした時、きっと周囲は気を遣って手伝うと思う。それももちろん優しさだ。でもその方の立場に立って考えれば「また他の人に迷惑をかけてしまった。」と考えるかもしれない。一人一人の違った考え方を理解し、相手の気持ちを最優先に考え、気を遣わせないようにさりげなく、そして自己満足でなく行動すること。それが「心のバリアフリー」の意味である。

建物やコピー機などに工夫を加え、環境的にバリアフリーだといって満足する役所や会社などの組織も多いが、整えるのは当たり前のことであり、世の中に不足しているのはこの「心のバリアフリー」ではないだろうか?

また一つ、配偶者とその方に「大切なもの」を教わった。本当に貴重な心の財産となったと同時に、その「心のバリアフリー」を配偶者から始め、会社や社会だけではなく人間全体にいきわたらせることができたらきっと心の豊かな社会になっていくと信じたい。

2006年6月 4日 (日)

「不可能を可能にする何か」は必要か?

昨日、私は自分の存在の一部とお別れしたと書いた。その「あるもの」は私の人生にとって過去からずっと非常に大切にしていたものであるが、自分だけの価値観だろうと思う。他の方からすると「何でそんなにこだわるの?」と思われるかもしれない。私にとってはそれは「不可能を可能にする何か」であり、それが私の心の中にあれば自分の限界点を超えても倒れるまで踏ん張れるという人生を送ってきた。

人はみんな考え方も環境も妥協点も何もかも違うが、他の方にも私と似たようなものを持っていると思う。私の場合には今回お別れをしてしまったため、また「何か」を探す心の旅が必要となった(と思った。)。

そんな今日、家にあったある絵本をぼーっと眺めてはっとした。

自分に足りない部分を探して旅をする主人公が、色んなかけらをはめてみるがなかなか合うものが見付からない。ぴったり合うものはないのかと諦めていた時、ぴったりのかけらを見つけ、自分が完成された。でも完成して初めて「不完全の方がよかった」と気がついた。こんな感じの話であった。見終わって涙が止まらなかった。

私にはまだ何も見えていないが、「不可能を可能にする何か」を改めて探す必要はないのかもしれない。お別れした「あるもの」も戻ってこなくてもいいのかもしれない。不完全のままが一番なのかもしれない。

人はみんな人生観や価値観が違うという観点で考えることができるようになれば、別の見方もできる可能性があるかもしれないとだけ思えるようになりたい。

2006年6月 3日 (土)

存在の一部の命日

昨日、自分の存在の一部である「あるもの」が心の中から出て行ってしまった。いや、他のことを守るため、お世話になっている方にこれ以上の迷惑を掛けないため、私が自らお別れをした。

でもお別れをした現実と今後の自分の環境をすべてあるがまま受け入れられたとき、きっと自分の魂が悟りに一歩でも近づいていると信じることにした。お釈迦様が私に与えてくださった修行と思うことにした。

自分の心の重要な支えとして存在していた「あるもの」さん、さようなら。手放してしまって本当にごめんなさい。きっとまたいつか大きくなって私の心に帰って来てね。本当に待ってます。

今日はこれだけしか書けない・・・

2006年6月 2日 (金)

藤原経清の死に様

急遽、藤原経清の死に様に関しても、書いておきたいことができた。ここでも「炎立つ」という高橋克彦氏の時代小説を引用させていただくが、源義家につかまった経清は彼の父である源頼義の前で彼と刺し違えようとした。しかし、経清は義家が彼の大切な2名の部下の髷を預かってくれた男気に感謝し、素直に切られる覚悟をした。源頼義と源義家の親子は経清を武士の鏡と思っていたので、経清の義兄弟である安部貞任を殺し、「安倍氏」が事実上滅んだ今となっては、陸奥に脅威はなく、できれば自分に再度仕えてほしいと思い、一度は見限られた経清の命を救おうとした。

しかし経清は一言、「(性根の腐った)獣に仕えては武士の名折れである。」と発し、潔く首をはねられた。「国家の品格」という本の影響で「武士道」という言葉が流行っている(?)ご時世ではあるが、現代にも様々な死に様があると私は思っている。

それぞれの死に様に関しては私も彼と同く潔くしたいと思っている。

支えるものは気持ち

前々回と同じくバーテンダーの生き方について書いてみたい。今回も本の抜粋なので、問題があればご指摘ください。前回と同じ「バーテンダーの第4巻」です。

主人公の到達点は「お客様一人一人に魂を救う最後の一杯と呼ばれる「神のグラス」を提供する。」ことである。

しかし彼の師匠であるバーテンダーは毎日「魂の疲れ切った」お客様を受け入れるために店を開け、結果的に過労による病気で倒れた。そのことが主人公にとって心のわだかまりとなって残っている。こんなに人間の魂を助けたバーテンダー(自分の師匠)が病気で倒れたことで若い医者に「おじいちゃん。」と名前でなく「認知症の方」と同じ意識で呼ばれ、過去を否定されたものと考えられてしまったことが気持ちとして許せない。

そこで先輩のバーテンダーは主人公に新しい生き方を教える。「お客さんは流れ着いてきた旅人と同じだ。バーテンダーという人間は覚えていない。でもその場所でバーテンダーに出してもらった、魂を助けられた一杯を忘れない。それでいいんだ。人間を覚えてもらうことではなく「魂の一杯。」を覚えていただけていればそれでいい。我々の使命とはそういうものだ。だから師匠も自分もバーテンダーとしての生き方を選んだ。それもバーテンダーの生き方の一つだ。」という台詞である。最後にその先輩はこう付け加える。「師匠も自分も後悔なんかしていない。」と。

私はこの生き方に共感すると同時に矛盾も感じる。それはまだまだ自分に人生の修行、悟りが得られていないためである。

人間はそれぞれ考え方が違う。理不尽とも思える辛く、悲しく、厳しい現実が突きつけられることもある。自分も現在その渦中にいる。もちろん悟れていないし、私には人間の醜さを受け止められる度量も懐の深さもない。

ただ、こういう気持ちだけは忘れずに、常に「他の人の気持ち」を考えること、バーテンダーではないが「自分なりの方法で自分以外(会社も含め)を助けること、救うこと。」を自分の生涯の目標として生きて行きたい。

その結果、相手に誠意が伝わらず、貶められ、どんな厳しい環境に置かれてもその気持ちは変りたくはない。これは私の偽りないこころである。

しかし、人間は弱いものである。私の細い心も折れそうになっている。特に精神的に非常に辛い状況である。そういうときには自分はどうしたらいいのか結論は未だに出ていないし、一生でないかもしれない。。。

人間とはいったいどんな存在なのであろうか?答えを出すのにどれくらいの年数がかかるのだろうか?それとも一生かかってもできないのかもしれない。でもそれはそれで仕方のないことだと思う。

2006年6月 1日 (木)

お釈迦様の最後の言葉

私は最近「お釈迦様の最後の言葉」に出会った。今日、思い出したので僭越ながら取り上げさせていただくことにする。

「私は道理と法の領域だけを歩んできた。これ以外に人の道は存在しない。人間の本当の道(法と道理)を追求することが人間の努めである。この世に常なるものは存在しない。だからこそその理を悟ることだ。そう思って毎日を生きることができれば有意義な日々を送ることができる。」

またアーナンダという弟子に最後の言葉を聞かれた時にも「自らを拠りどころとし、法を拠りどころとせよ、それ以外を拠りどころとしてはいけない。」とお答えになったそうです。

私はもともと物事の考え方の基準を「物事の本質を見極めた正しい理想主義」と「道理(理論)と法(ルール)による現実主義」とのバランスで判断することが非常に多い。だから日本のアホな法律の矛盾を感じるのだと思う(また脱線した)。お釈迦様のこの言葉を読み、権力に媚びずに自分の考え方を貫く覚悟を決めているが、実際に世の中には暴君と呼ばれる歪んだ権力者が数多く存在し、権力を謳歌している。自分もその権力に振り回され、悩み、苦しむことも多い。

お釈迦様は権力などどいう不浄なもの自体を否定し、権力はいつか崩壊することを知っていただろうが、残念ながら私にはまったくその気配さえ感じることができない。

お釈迦様の域に達することは生涯無理なことだと納得しているが、せめて少しでも早く「権力は崩壊するんだ。」ということを感じられるようになりたいと心から思う。お釈迦様の言葉を信じ、現在、自分の周囲で起きている様々な不条理な毎日が自分の精神修行のための有意義な日々であることを信じたい。

2006年5月28日 (日)

バーテンダーの生き方

私は今も人生に悩んでいるが、以前にも同じような状況で非常に深く人生に悩んだことがある。その時にいろんな世界を覗いてみることで自分の生きる道を見つけようと考えたことがあった。

特に興味を持ったのは「ソムリエ」と「バーテンダー」だった。1年という短い期間ではあったが「ワインスクール」や「バーテンダースクール」にも通った。その影響かシェーカーも振れるし、そこそこの何かを得ることができたと自分では思っている。さらに今となってもその名残で「他の方への気配り」ということを最優先に深く考える習慣がついてしまった。

その関係で酒に関する本は沢山読むが、その中に「バーテンダー」という漫画(原作:城アラキ、漫画:長友健ジ)がある。今回は「第4巻」に書かれている私が非常に心を打たれた言葉を紹介したい。(なお、今回は個別の本の引用をメインとしているため、集英社、原作者及び漫画を描かれた方からの著作権上のクレームがあれば削除させていただきますのでご一報ください。またご要望があればトラックバック等で本の紹介に協力もさせていただきますので遠慮なくご連絡ください。)

まず一つは、主人公のバーテンダーの師匠の言葉として紹介されている以下の言葉。

「人はバーテンダーという職業に就くんじゃない、バーテンダーという生き方を選ぶんだ。」

「その意味は何か?」ということについてもその漫画に描かれている。漫画の言葉をそのまま引用をさせていただいた方が意味が伝わるのでそのまま書きたい。(漫画には主人公と先輩バーテンダーとの言葉のやり取りがあり、それをそのまま読むとより深く意味が理解できるが書ききれないので省略するが、そこは非常に残念。)

「(バーテンダーという)サービス業には形がありません。理想を高くしなければ自分がダメになります。仕事ならごまかせますが自分の生き方はごまかせません。」

この言葉が私の今の心に深くつきささっている。この漫画には他にも心に残る言葉やエピソードが沢山出てくる。時々、私の心の中をあらわす意味で紹介させていただくことになると思う。

ちなみに脱線する(またか・・・)が「バーテンダー」とは元々は「バー(止まり木)」と「テンダー(優しさ)」の造語であるので、バーに行かれた際には、間違っても「バーテン(さん)」とは読んではいけない。言葉を途中で切ることになってしまうからである。(これも第1巻に書かれているが、私はスクールの一番最初に教わった。)

2006年5月27日 (土)

藤原清衡

今日の人物は「藤原清衡」。昨日のブログで書いた藤原経清の遺児である。私も歴史書をいろいろ読んだが、彼についての記述が非常に少なく、また不思議なことも多い。その中で私が彼に感じたことは「耐えること。」だと思った。なぜかというと、藤原経清が前九年の役で斬首された後、朝廷軍に協力した清原軍に母親と共に捕虜になった。どうやら母親が清原氏の後継者の後妻になったため、命だけは助けられたようである。その後、誰も周囲にほとんど誰も味方がいない状態が20年ぐらい続いた状態で生き延びられたこと自体が奇跡ではないかと思う。まだ勉強不足で彼が奥州を統一するまでの過程が私には理解できていないが何故彼は敵ばかりの中で生き延び、そして奥州を統一し、奥州に本当の平和をもたらすことができたのであろうか?昨日も多少書いたが、源義家が彼の味方に回ったことは事実ではあるようだが、それは20年以上も後のことであり、それまでの期間、「どんな屈辱にも耐えること、自分の意思を押し殺すこと。そして何と言っても目標(楽土を作る。)を失わないこと。」ではないかと思う。それがあったから彼は「耐えられた」のではないかと私は想像する。それでも捕虜同然であるからいつ殺されても文句は言えない。そんな状況でどうやって彼が生き延びたか私にはそれが未だに見つけられてない。

彼が奥州を統一するまでの過程はこれから奥州を旅して調べていくつもりであるが、民衆のための政治(楽土)の基礎を築いたことで、ゆがんだ人間であった源頼朝につぶされるまでの長期間、奥州は本当に平和であった。朝廷に負けない政治制度を持っていたと書いてある書籍もあった。平泉の中尊寺金色堂を初めとする各種歴史的建造物を建立し、そして「僧」や「宋(中国)」が持っていた知恵を活用して、自分達の栄達だけを考えている朝廷とはかけ離れた民衆のための政治を行っていたことだけは確信を持って事実だと言える。

その頃朝廷では藤原氏、平家、源氏が敵味方に分かれて自分達の権力を拡大しようともくろみ、民衆のためのことなど何一つ行ってこなかった。天皇陛下ですら権力を求めていた時代であった。彼らは自分達の権力を拡大できれば民衆などはどうでもよかったのである。ひどいことに同族の源氏や平家の中でも分裂が起こっている状態であった。京都を中心とする朝廷の支配する土地に住んでいた民衆は本当に苦しんだことだろう。

これからも彼に関しては調べていくつもりである。ただ、周囲が敵ばかりの中で自分の意思を殺してまで耐えることのできた強い意思。そして自分が権力を握れた時に、権力に任せた暴君になるのではなく、本当に民衆のための政治を行ったその度量。不遇な状況である時にも民衆のための政治を行う準備を考えていた彼には末恐ろしい「心の強さと意志」を感じる。

私を始め、現在不遇な状態に置かれている方がいらっしゃったら、是非彼のことを考えていただきたい。彼の苦労に比べたら、私ごときたいしたことない、と感じられるようになれたらいいなと思うが、私は今でも彼の足元にも及ばない。。。

2006年5月26日 (金)

藤原経清

今日は「藤原経清」について書いてみたい。といって彼のことを知っている方のほうが少ないと思う。彼は「前九年の役」と呼ばれる朝廷軍と蝦夷(陸奥)の戦いで中心的な役割を果たした人物である。かなり昔であるが「炎立つ」という大河ドラマがあったので覚えていらっしゃる方もいるかもしれない。以前の大塩平八郎の時にも書いたが日本史の教科書では「役」と書かれている。この言葉は基本的に国外との戦い(「文永の役」や「弘安の役」など)に使われる。同じ陸続きでありながら「役」として国外扱いをされている状況にまず納得できない。文部科学省は教育基本法など改正して国民の愛国心だの言う前にこういう基本的なことから改めるべきである。そしてもう一つ「蝦夷」とか「陸奥」という言葉の使い方もちょっとなあと思う。「蝦夷」は差別用語だし、「陸奥」に至っては「陸の奥」である。そりゃ朝廷のあった京都から見れば「陸の奥」なのかもしれないが、欧州から見て日本を「極東」(極限まで東)と呼ぶのと同じである。

前置きが長くなってしまったが、彼も元々は朝廷側の人間であった。父親の朝廷内での失脚によって奥州の「亘理」という地区に左遷されたことがきっかけで蝦夷との関係を持つようになった。しかし、その時代の朝廷も現代の政権と同じく腐敗しきっていた。政権を担当していた公家連中は自分達の栄達だけ考え、民衆のことなど一切考えていなかった。逆に蝦夷を統治していた「安倍氏」は民衆のための統治をしており、朝廷など無視している状況であった。彼はどちらが本当に民衆(国民)の事を考えていたかという点に悩み、結果として腐敗しきった朝廷を見限り、安倍に身を寄せることとなった。彼は腹の据わった武士であると同時に民衆のための政治、そして人間を大切にする人物であったため、朝廷の支配する国に自分の理想や未来はないと感じたのであった。

彼のすごいところは「20歳代で自分が所属している国(会社や地域などのレベルじゃないですよ。)を見限ることのできる勇気」だと私は思う。そしてその勇気に私は心を打たれる。自分は自民党政権が腐敗してるからといって、日本人でなくなる(亡命)ことまで踏み切れるかどうか。。。年金(まだ払っている。)リタイアでもない限り無理だろうな。。。考えていてもなかなかできる事ではないと思う。

その彼の生き方は部下に伝わり、安倍氏と戦っていた部下すらも一糸乱れず彼と一緒に安倍軍に合流することができたのである。(彼の部下の中には安倍軍に家族を殺された人間もいたはずであるが。)私はこういう人間を大切にするリーダーに仕えたいと心の底から思う。大切なのは権力や肩書きではない。人を大切にする心、そして思いやりの心である。そして彼の思いやりは見限ったはずの朝廷軍の人間に対しても行われている。

一つ例をあげれば、「源義家」である。源氏最高の武将と言われた彼であるが、義家は父親の源頼義とともにこの戦いに参加していた。しかし藤原経清の思いやりの心がなければその後の名声など有り得ないだけでなく、彼だけでなく源氏すらこの世から消えていただろう。それほど後世の歴史に影響を与えているのである。源頼朝など存在していない。

「前九年の役」は1回の戦いではなく、何度も繰り返された戦いを総合して呼ぶ(「川中島の戦い」と同じようなもの)がその中で「黄海(きのみ)の戦い」という大雪の中で戦われた合戦があった。源頼義の無理な作戦によって朝廷軍は立ち直れないほどの大敗を喫したのであるが、なんと勝敗が決したと判断した藤原経清は雑兵の服装をして逃げようとした頼義や義家をわざと見逃した。本来ならば今後の憂いを考えればそこで殺してしまうのが今後のためである。しかし、もう大勢に影響はないと判断してのことではあっただろうが、彼は若い義家に同じ武士の心を感じていたのであった。彼にとっては有能な人物は敵であっても殺すのは惜しい、朝廷を改革してくれるのではないかと期待していたのではないかと私は思っている。

結果的にはその判断が原因で、前九年の役の最後に安倍軍は朝廷軍に敗れてしまうのであるが、その心は逆に義家にも伝わり、数十年後に「陸奥守」として赴任してきた源義家は彼の遺児である「藤原清衡」(彼についても不思議な人生を送っているため後日書くことにする。)を助けることにつながっていくのである。

藤原経清は20代で自分の所属していた国を捨てた。もちろん理想とする国を見つけたこともあっただろうが、私などは腐敗しきっている自分の会社ですら見限れるかどうか未だに定かではない。しかし、彼の心根だけは忘れないように生きていきたいと思う。

2006年5月25日 (木)

石田三成

「石田三成」という人物は歴史上の人物として知らない方の方が少ないだろう。1600年の「関が原の戦い」で東軍の徳川家康と戦い、敗れてしまった人物である。彼は近江佐和山19万2千石という小大名であった。その彼が事実上の大将となって関東250万石以上を持つ、いわば10倍以上の兵力と財力を持つ徳川家康という巨大な敵に戦いを挑んだのである。

今日は、何故、彼はそこまでの力の差をわかっていながら「徳川家康を武力で倒すべし。」と考えたのかを書いてみたい。(戦力分析や事前の根回しなどはまた後日。)

石田三成は豊臣秀吉によって役人としての能力を見出された人物であり、「豊臣政権」の「奉行職」として政権の維持に尽力を注いでいた。晩年の豊臣秀吉の乱行については諸説あるが、秀吉が死んですぐに「豊臣政権」がなくなったわけではないことをまず知っていただきたい。

豊臣政権は「五大老(ここに徳川家康他4人)」、「五奉行(ここに石田三成他4人)」による合議体として運営されていた。(「中老」が3人いたという説もあるがあまり影響がないので触れない。)秀吉はどちらかというと「五大老」をアドバイザー機能として扱っており、中心は秀吉を頂点とした「五奉行」が政権運営するという形であった。

秀吉は晩年、大名間でつるみ、政権にひびが入ることを回避するため「大名間の婚姻を禁じる。」という法律を出した。しかし徳川家康は秀吉が死ぬとすぐに「加藤清正」、「伊達政宗」などの有力大名と婚姻関係を結び、その法律を破り続けた。奉行が家康に詰問しても「忘れていた。年をとると物忘れがひどくなる。」という何とも白々しい人を食ったような回答で追い返し、その後も婚姻関係を拡大してそれを自分の味方(戦力)に入れようと力を注いだ。家康はわざわざ法律違反を起こし、混乱に乗じて政権を奪い取ってしまうという作戦を立てたのである。

あくまでも豊臣政権の維持に尽力していた三成はこのような動きを見せる家康を許すことができなかったのである。力(権力)のあるものが政権を奪うのは当然である、という意見もあるだろう。しかし、今までの秩序を守ることによって国と民衆を守るというのも一つの方法であり、いわば天下分け目の関が原は、「欲と力」vs「秩序」の戦いだったわけであり、三成は「秩序」側の代表だったということである。

結果は家康が各大名に手を回したことによって裏切りが続出し、東軍の勝利に終わったが、ここにはいくつかの教訓と時代背景がある。

1.当時は秀吉政権が日本を統一したとはいってもまだ「下克上の最終時期」であり、力のあるものにすりよる人間が多かった。

2.秀吉に認められて政権の中枢に上り詰めた三成は他の人物も自分と同じように秀吉に恩義を感じており、「豊臣政権」が続くことを望んでいると勘違いしていた。

3.三成は西軍の総大将としての戦力を持たない小大名だったため、強力なリーダーシップ(兵力=力)がもてなかった。また「こうあるべき」という理想論に基づいた戦略しか立てられなかった。

4.その結果、関が原に集まった大名は西軍(三成側)の方が多かったが、戦いの前にはすでに東軍(家康側)に寝返っている大名がたくさんおり、実際に戦ってくれる戦力が少なかった。

という状況により西軍(三成側)は負けたのであるが、三成は自害せず戦場から逃げた。それは何故か?「一度負けても命さえあればまだ秩序を守る(家康をつぶす)チャンスはあるはずだ。」と考えたからであった。結果的には伊吹山中の洞窟に隠れているところを捕まり、首を落とされるのであるが、首を落とされるために向かった籠の中で以下のような会話があったという逸話がある。

三成:喉が渇いた。水が欲しい。

籠運び:水はない。干し柿ならあるので、これで潤せ。

三成:柿は「痰の毒」なので食べない。

籠運び:これから首をはねられる人間が何を言う。

三成:自分の理想を追い求める者は最後まで諦めず、命を大切にするんだ。お前のような雑兵にはわからないことだ。

三成には秀吉に見初められた時の気配りのするどさを教えてくれる「三献茶」や「関が原で敗れた時の佐和山城には蓄財がほとんどなかった。」や「幻の百万石」などの沢山の逸話が残されているが、私はこの逸話が特に好きである。狂った権力に負けず最後まで諦めることなく「志」を持ち続けなければいけないという気持ちにさせてくれる。

歴史は時の権力者の思い通りに変えられてしまうのが常であり、石田三成は「権力に逆らった悪い人間。」と思っている方も多いかもしれないが、実際は時の秩序に逆らって力によって強引に権力を奪い取ったのは家康の方である。

石田三成、その思想や生き方に関して、私の理想とする人間の一人である。「判官贔屓」という言葉があるが、えてして敗者の方が美しいと感じてしまうのは私だけはないだろう。

脱線その1:「三献茶」

秀吉が鷹狩で三成が修行中の寺に立ち寄って「茶が欲しい。」と言ったときの話である。秀吉は走って喉が渇いているだろうと思い、1杯目は「一気に飲めるように大きい茶碗にぬるいお茶」を、2杯目は「落ち着いて飲めるように少し小さめな茶碗にして少し熱く」、3杯目は「お茶の味をじっくり味わえるように小さな茶碗に舌が焼けるほど熱く」というお茶の出し方をしたという話である。相手がどんな状態にあるかをわかった上での「気配りの大切さ」と「もてなしの心」を教えてくれる。

脱線その2:関が原の戦い後の「佐和山城には蓄財がほとんどなかった。」

三成は常々「主人からいただいた給料は全部奉公のために使うべきである。」と常々言っていたようだ。しかし、彼は政権の中枢にいたので、賄賂をもらっていると思っていた。しかし、実際に彼はそういうことは一切せず、本当に居城に金目の物は何も残していなかった。踏み込んだ徳川方の大名はその質素さに、「これが政権の中枢にいた人間の城か」と驚いたそうだ。「有言実行」、「清廉潔白」な人物である。さらに佐和山城は綺麗な城ではなかったが非常に頑丈な城であったらしい。城の役割と見た目が綺麗でも中身が伴わないと意味がない、ということも本質的なことを教えてくれる。

脱線その3:「幻に消えた百万石」

秀吉が三成の功績に対して、九州で百万石を与えようとしたことがあったらしい。それに対しての三成の回答は「九州では遠く離れてしまって上様(秀吉)のそばでお仕えすることができなくなり、上様のご期待に添えなくなるのでいりません。」であったそうだ。彼は私と考え方が同じである。私も会社で働くことの意義は「お金(給料)」じゃなくて「会社や上司からの信頼、それに答えようとする期待、そして働き甲斐。」である。

三成は「仕事に対する私の人生観の基本となる考え方」を作り上げた人物である。(今や何故か過去形。。。)

余談だが(さらに脱線するか?)、しかし、結果論ではあるが三成に百万石あれば名実共に西軍の総大将になることは可能であっただろう。そうしたら徳川への寝返りも減り、歴史も変わっていたかもしれない。

2006年5月23日 (火)

NHK

今日のネタはNHK。ここも非常に突っ込みを入れたい組織の一つ。実は私は最近はNHK受信料を払っていない。そのせいか最近よく自宅にNHKが来る。それも非常に高圧的な態度。「放送法って知ってます?払わないとそれに違反して罰則を受けることがあるんですよ。」だと。集金人は「法律って絶対だぞ。」と思っているのかもしれないが、思わず笑ってしまう。私は放送法の内容を読んでいるので「あっそ、それで?」で片付けるが、世の中には「法律、罰則」に恐れをなして「あ、払わなきゃ。」と払ってしまう人が多いことだろう。最近は不祥事続きでNHKの経営体質に疑問を持ち、払わない方々が増えてきた。いいことなのか(爆)?

そのNHKの人が「高飛車で放送法って知ってます?」って来た時にいくつかの撃退法を私は考え、実践を試みている。(撃退したくない方は素直に払ってください。法律違反です。)

1.放送法では電波を受信できる設備を持っている家庭は受信料を払うことが決められている。そこで、壊れたテレビをどっかから拾ってきて、玄関で集金人の目の前で叩き壊す。これは集金人がびびって帰った。(後の掃除は大変だったが。)

2.NHKの人の気持ちになりあえてうそをつく。「うちにはテレビがないんですよ(笑)。」最近では格差社会とはいえ、さすがにそんな家庭あんまりないでしょう。でも集金者はこれが帰って報告する時に一番安心するらしい。テレビがない家から受信料は取れないですからねえ。生活保護家庭でも車はだめだそうだがテレビは基本的人権の観点から当然OK。こちらが気を遣って嘘をついているのに、「家にTVがない。」と言うと必ずといっていいほど「入って確認させていただいてもいいですか?」と集金者は言ってくる。そこで玄関で靴を脱ぐ瞬間に「私はここから先に入るのを許可してません。放送法には住居侵入を無条件でやっていいとは書いてありませんよね?住居不法侵入で警察に電話します。」と言うのである。これもびびって帰った。

3.最近の不祥事を列挙して、NHKの体質が改善したら払うといって普通に追い返す。(これ、ここ数年では意外に効き目がありますよ。きっと集金者も負い目を感じているんだろうなと可哀想にはなるが。)

4.テレビの映るカーナビなどからも取らないと不公平じゃないですか?(まだやってない。)

5.最後に、あまりこういう強引なことをやっていると目を付けられ、差し押さえをくらう可能性がある(法律改正中)ので、法律には法律で得た情報で返す方法を。以前に「情報公開法」という法律の存在をこのブログに書いている。NHKは特殊法人なので情報公開関係法律(正確には「独立行政法人等に関する情報公開に関する法律(日本の法律名はなげーよ。)」)の対象機関なのである。そこでNHKのHPを覗くことができ、誰でもNHKの決算書が見られるようになっている。今は17年度の決算書が公開されている。そこの「貸借対照表(B/S)」の「流動資産」のところを注意してみてもらいたい。(アドレスは以下の場所)

http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/kessan/h17/pdf/kessan17.pdf

この中に「受信料未収金」が641億円ほど計上されている。まあ要するに「取らぬ狸の皮算用」よろしく、本当は受信料を払っていない人が払ってくれたらどれくらいになるのかを計算しているわけでございます。問題はそのすぐ下にある「未収受信料欠損引当金」です。これが611億円計上されています。経理に詳しくない方のために説明するとこの引当金は「きっとずっと払ってくれないだろうから、いつか将来、もらえないから諦めて損として計上しないといけないんだろうなあとNHKが準備している金額。」すなわちNHKの弱気が現れている項目なのです。その弱気の割合、なんと「611億円/641億円で95%強。」NHKでは払ってくれない人の95%の集金を諦めているのかということになる。これは非常に驚きである。しかもNHKの決算書というのは「国会審議(衆議院にNHK決算委員会というのがある)」を必要とするいわば「国のお墨付きを得た決算書」がこれである。(NHKさん、本当に気が弱いっすよ。)

まあ社員が私的に着服したり、長期政権のエビジョンイルとまで呼ばれた絶対的な権力者の退職金に払われるくらいだったら、払わないのもありだが、払わないことが法律違反であることに変わりはないので、このブログで教えてもらったということでなく、自分なりの判断で正しいと思う行動を取っていただきたい。(というのも「共謀罪(まだ国会で未成立)」にはなりたくないんで。)

ここでまた脱線するが現在、国会では共謀罪というアドバイスをしただけで犯罪にしてしまうという恐ろしい恐怖政治を生む法律が自民党と公明党が強引に通過させようとしている。まあ古臭いそして恐ろしい無駄な法律をもう一つ作ると思っていただけばいい。でもこれは非常に恐ろしい法律で、例えばこのブログを読んで、その通り実践してしまったら、私は共謀罪に問われるのである。知恵や助言、アドバイスだけで捕まる連座制という法律である。江戸時代の「一族郎党総責任制」じゃないんだから時代に逆行する法律はいかがなものか?そこまで国民を信頼できないんですか?自民党さん。私は逆にあなた方の方が信頼できませんよ。

私は平等であるとか無駄な使い方をしないとか、普通の組織が当然やっていることをやっていてくれて、それを説明してくれて、自分が納得したら払うつもりでいますよNHKさん。でも残念なことになかなか納得させてくれる集金人が家には来てくれないんです。お待ちしていますよー。

最後にNHKを褒めておこう。やっぱり地震や災害などがあった場合にはやっぱりNHKだよねえ。いい番組も多いし。BSのスポーツ中継なんてありがたくて(爆)。早く信頼を回復して、きちんと私に受信料を払いたい、という気持ちにさせてくれる集金人が来てくれないかなあ。玄関にシール貼りたいよー。

2006年5月22日 (月)

情報公開法と個人情報保護法

みなさんの家に、どこで仕入れたわからないが「マンション買いませんか?」の勧誘や「資金運用しませんか?」などの電話がかかってきたことはないだろうか?うちには毎日のようにかかってくる。ひどいことに相手は名乗らないのに、こっちの名前は確認してる。今までに一番ひどかったのは3日続けて同じ人間から電話がかかってきて、3回とも「始めまして。」といったバカなセールスがいた。(こっちはお前みたいなバカは覚えてるっつうの。)

その度に私は情報源を確認するために「違います。引っ越しているんじゃないですか?どの名簿なのかしらないが間違い電話が多くて困る。その名簿、削除しておいて。」とすっとぼけることにしている。そもそも「まずは自分が名乗らない人間なんて信用できない。」。「まず自分が名乗るのが礼儀ではないですか?」と聞くようにしているが、怪しげな会社名か個人名以外ほとんど言わない。そしてこちらの都合など一切お構いなしにしゃべりまくる。自分の身分を名乗らない人間、人の話を聞かない人間なんて信頼できるはずもないよね?皆さん、世の中に甘い話はありませんよ。お気をつけくださいね。私は儲け話を持ってくる人間がいたら、「じゃあ自分でやってみたら?」と聞くようにしている。そうするとムキになったように「私もやってます。」って答えるんだよね。こういう非常識な人間が本当においしい儲け話を教えるはずないのに。。。それにそういう発言に対してムキになる人間は心理的な後ろめたさを感じているからムキになるんである。是非、騙されないようにお試しください。

さらに私はちょっとからかってやろうかと思うときには、「個人情報保護法って知ってますか?この情報をどこから仕入れたんですか?」と聞くことにしている。大体の人間はここで口ごもるがまくし立てる輩もいるのでそういう時は名簿の入手経路を確認(名簿図書館とかふざけた図書館があるから。)した上で最終的に「間違い電話」にする。

ところで各企業はこの「個人情報保護法」に基づく情報漏れに過剰な反応をしめしている。クレジットカードの番号などが漏れたらその損害は想像を絶するものになるからである。しかし、その費用と手続きは企業にとって過大な負担を強いる。

それでもヤフー、ジャパネット、楽天などの企業にも情報漏れが発生し、後を絶たない。だからこそ企業は損害を未然に防ぐために過剰なまでの防衛策を取らざるを得ないのである。

一方で、話が飛ぶようであるが政治家や官僚たちはころころ考え方を変える。数年前にお役所及び天下り団体に「情報公開法」というのが制定されている。これは積極的に内部の情報を公開して、透明性を高める目的を持った非常にいい法律であると思っているが、「個人情報保護法」ができたせいで骨抜きにされている。

すなわち、情報公開法で開示請求をしても個人情報保護法で待ったをかけて公開を拒否してしまうのだ。簡単に情報公開が拒否できる上に、なんて無駄で矛盾した法律を作るんだろうなと思う。(法律も作るだけでなくスクラップアンドビルドをしろっつうの。)

何のための情報公開法だ?これらの法律は役所だけではなく、改革という日本語しか知らない某国の首相が名前を変えただけの、役所の天下り団体(子会社)である「独立行政法人(旧特殊法人)」という聞きなれない組織にも適用されている。

独立行政法人の矛盾点に関してはまた別途書くが、この2つの法律のために多大なる税金が使われていることをご存知だろうか?

消費税を上げるなどと寝ぼけたことを言う前に歳出削減、天下りの禁止などの官僚や政治家の特権(政務調査費、通信費、給料)などを削減するか、無駄な政治家の数を減らすことが先ではないのか?

天下りに関しては、もっと危険である。今までは曲りなりとも人事院という組織が監視していたにも関わらず、今回、閣議や大臣の裁量で勝手に天下りが許される方向に変更されるようである。

歳出削減や格差社会の是正、アジア外交重視などと耳に心地よい言葉を次の総理大臣候補が色々言っているが、マスコミはこういうところにメスを入れずにどこにメスを入れるんだ。マスコミは誰が総理になるのかアンケートを取っている暇があったら、政策の違いに重点を置いて、報道の仕方に反省してほしい。ワールドカップに浮かれている場合ではないぞ(笑)。

800兆円を超えた国の借金、地方を入れれば1000兆円を超える。格差社会も広がっている。私は本当に日本のことを考えてくれる人間にリーダーシップを取ってもらいたい。そしてそういう人間には是非、下記の「日本の借金カウンター」を見てもらいたい。(1秒間に約16万円ずつ増えている。これを見ているとぞっとするのは私だけではないはず。)

http://www.kh-web.org/fin/

個人的な希望で言えば、「北川正恭氏(元三重県知事)」のリーダーシップに期待してこの国を託してみたい。

ああ、また脱線だ。

2006年5月19日 (金)

リーダーシップとは?(その2)

引き続きサッカーで脱線したい。私も2002年のW杯で熱狂した人間ではあるが、韓国(ベスト4)と日本(ベスト16)には決定的な差があったと思っている。それは私の主観では監督(リーダー)の差ではなかったか、ということである。

日本のトルシエ監督(当時)はその時の日本のサッカーは型にはめた方が能力を発揮できるだろういう判断で選手を信頼することや自由度よりは「秩序」を優先した。結果的に「中村俊輔」がメンバーから漏れるというサプライズがあったのも、選手の才能よりも秩序や戦術を重視した結果である。さすがにフランス人だなあと感じたことを覚えている。まあトルシエにすれば日本選手のレベルの低さもあったのかもしれない。

さらにベスト16で満足したわけではないだろうが、決勝トーナメントと予選リーグでは大幅にメンバーを変えた。その意図は選手に伝わっていたのだろうか?私レベルには理解不能だが、結果的にトルコに負けたという結果だけが残った。

しかし、当時韓国の監督であったオランダ人のヒディング氏(今回のオーストラリア監督)は劣勢あるいは勝ちに行く時にはFWを3人、4人と投入する。一か八かの選択なのかしれないが、戦術が非常に明確で選手への指示も的確で選手達にも明確に意思が伝わる。こういうリーダーシップが選手の目的意識をはっきりさせ、モチベーションを上げるということはないだろうか?数が減ったMFやDFにだって「抜けた穴は自分達で守る。」という監督の気持ちが伝わるはずである。トルシエはそういうことは決してせずに、つねに秩序を守る交代以外はしなかった。あの時のヒディング采配に私は明確なリーダーシップを感じた。

今回のジーコも自由度は高いようだがトルシエと似ている気がする。怪我した時の安全策なのか同じポジションに2人を配置することを基本路線としてメンバーを選んだために有能な人材が数多く選考から洩れた。(でもジーコの鹿島びいきは選手のモチベーションを下げないだろうか?)

本当に個人的な希望になってしまうが、私は個人的には4年前にジーコではなくヒディングを今回の監督に選んで欲しかった。(私の主観なのでお気になさらないように。)

ブラジルは当たって砕けろなので、そういう意味ではやっぱりヒディングが率いるオーストラリアが一番厳しいくて恐いのは私だけであろうか?

2006年5月18日 (木)

人選や評価とは難しいものだ。

今週の15日に6月に行われるワールドカップの23人のメンバーが決まった。ジェフ千葉の巻選手が選ばれたという「サプライズ?(マスコミによると。)」があったが個別の人間に触れることはしたくないし、自分レベルのサポーターが語るべきことではない。

しかし事前の下馬評で当然選ばれる人、選ばれなかった人、選ばれたが実際にはドイツのピッチに立てないかもしれない人、いろんな人がいる。もちろんジーコも自分の基準で期待する人間を選ぶのだろうが、それぞれの立場の人たちの気持ちを考える、というスタンスで少し脱線してみようと思う。

1.選ばれた人(特にピッチに立てると思われる人)はこの4年間の実績と信頼があるからだと思う。でも実はこの方々は私が考えるに一番プレッシャーが強い可能性が高い。活躍できなければ、A級戦犯にもされてしまう可能性がある。

2.選ばれなかった人は海外リーグや国内リーグで実力を高めるなどの限界までの努力をしたが、監督には23人の中には認めてもらえなかった。この方々が私は今後一番成長すると思う。テレビで選ばれなかった方々のコメントを聞いたが、非常に悔しさを押し殺しながらも「実績を出して絶対に次の監督には認めさせてやるぞ。2010年に出るんだ。」という気迫を感じた。(松井、阿部、長谷部、大久保など。)

3.選ばれたがサブや展開を変えたい時に使われる可能性が高い選手。ではこの選手達の気持ちはどうだろうか?短い時間で結果を出す必要があるとかレギュラーが怪我しないといけないとか、非常にモチベーションを保つのが難しいと私は思う。一時期、ジーコが海外組ばかり優遇するので、ふてくされた国内組の選手が羽目を外してしまったことがあった。あれは「信頼と期待」ということを監督が伝えていないのではないかと推察する。

私は過去はアスリートであったが、今は社会人としての能力評価・業績評価という観点で相手の気持ちを考えてしまうので複雑な心境であるが、能力は高いが結果的に認められなかった選手には「悔しさ」の他に「監督との縁がない。」という気持ちも持ってほしい。

2006年5月17日 (水)

窮地に追い込まれた時の人間の反応

以前にも少し述べたが、織田信長の家臣で前田利家という武将がいる(え、加賀百万石だから知っているって)。若い頃、歌舞伎者と呼ばれる流行の最先端のファッションをしていたらしい。あるとき、前田利家が賄賂を贈らないという理由で織田信長の茶坊主が信長に悪口を吹き込んだ事を利家が聞きつけた。それを聞き、怒った利家は茶坊主を切り殺し、信長から怒りを買い、浪人に出された。その時の利家は非常に落ち込んでいたらしいが、自分を見舞いに来る人種が3種類あることに気がついたそうだ。

1.心配なフリをして訪問し、「謀反を企てているのでは?」と探り、信長に報告する手柄を立てようとするいやらしい輩。

2.浪人がどんな暮らしをしているのかを様子を見に来る興味本位の輩。

3.本当に利家のことを心配していて、信長に利家のことを許してくれるように頼む人物。

意外にも「3.」の人間の代表格は信長の当時の次席家老の「柴田勝家」と「木下藤吉郎(豊臣秀吉)」だったそうだ。次席家老ともなれば足軽の前田利家のことなど気にかけないのが普通だろう。でも柴田勝家は地位など関係なく親身になって前田利家の心配をしていたようだ。後に前田利家はぎりぎりまで柴田勝家の与力となって働いており、秀吉と勝家の合戦の時にも勝家の恩義に答え一緒に死のうといたらしい。でも結局は勝家の方が、「もうお前(利家)は私に対して十分な義理は果たした。秀吉のところに行け。」と言われて、やむを得ず断腸の想いで秀吉軍に加わった。柴田勝家の男気に惚れるところがある。

でも実は秀吉とも足軽の長屋暮らしのころからの親友(妻同士も親友(「おね」と「まつ」)だし、仲人も務めた)であった。利家としては双方の恩義に苦しんだことだろう。結局、利家は勝家を攻めることはできずに秀吉の味方になることに留まった。でもその時の秀吉もさすがに度量が大きいし、人の心を読むことには長けていた。利家には無理に勝家を攻めさせることはせず、味方になってくれただけで十分だという扱いをした。(普通は裏切った人間は次の戦いで先鋒に立つのが当時の習慣であった。)

秀吉はその後も利家を丁重に扱い、最終的には大納言まで昇進させ、徳川家康の押さえとして嫡子「秀頼」の守役としての重要な役目を与えた。

私は人間として利家の義理人情の生き方を素晴らしいと思うと同時に、自分だったら利家の見舞いにどれを選ぶだろう。少なくとも自分は出世やごますりには興味がないので、自分のその時の地位にかかわらず「3.」を選ぶ人生を送りたいし、そのための努力を惜しまない。「勝家と利家」、「秀吉と利家」の間には双方に「信頼と期待」という強い絆が結ばれていたに違いない。

私は今の日本社会に必要なのは「金や権力や法律」ではなく、「信頼と期待」であると思いたい。

利家がもう少し長く生きていてくれれば(1598年死去)徳川家康の大暴走を抑えることができたかもしれず「関が原の合戦」(1600年)は起こらなかったかもしれない。そうしたら徳川が天下を取ることはなかったかもしれない。歴史に「もし」はないが、その場合、この世の中はどのように変化していただろうか?

2006年5月16日 (火)

人材がすべて

戦国時代の武将「武田晴信(信玄)」の言葉に「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり」というのがある。意味は優秀な人間を育て信頼すれば「城や堀」などの「形のある守りの装備」はいらないということである。また「人情」をかけることによってモチベーションが上がるということでもあるだろう。ただし「情」をかける人間は選択しないと「水は高いところから低いところに流れる。」ではないが、甘えが人間をダメにすることもある。そのさじ加減も権力者が「人力(人間の魂を見抜く力)」を持たないといけない。逆に権力者が「憎しみや脅し」で人間を強引に使おうとしてもその人間を苦しめてしまうだけである。

私はこの言葉を今の権力者達に聞かせたい。権力があれば法律や道理をゆがめることはたやすい。しかし社会や会社が成長していくためには、リーダーが優秀な「人材」を見つける能力を持ち、その人間の考え方を理解(叱って伸びる人間か?褒めて伸びる人間か?など)し、その人間に見合った育成環境を与え、その努力と結果に報いることであろう。

総理大臣が武田信玄であったら今のこの国はどのように変化していただろうか?

2006年5月15日 (月)

リーダーシップとは?

毎週月曜日の夜10時からテレビ東京で「カンブリア宮殿」という番組がある。毎回、ゲストを招き、いろんな話を聞くのだが、これが非常に興味深い。今回の放送を見て、「リーダーシップとか何か?」ということを考えさせられた。今日のゲストはSBIホールディングズの「北尾吉孝CEO」であった。ライブドアとフジテレビの時に登場したホワイトナイトと言ったほうが一般の方にはわかりやすいかもしれない。ミクシー代表の方が出たときは、まだ「大学のサークル活動にビジネスチャンスを見つけた」という感じで非常に軽いノリであったが、北尾氏は野村證券での経験が長く、年齢的にもリーダーシップの取り方に関する説明が非常に面白い点が多かった。

北尾氏は一番評価した部下が「最高の評価」が得られなかった場合には、段階を踏んで上司に説得を繰り返していくと言っていた。自分の下した評価に戻るまで、人事部長、人事担当取締役、副社長、社長、会長まで行くという。それでだめならそんな会社に未来はない、ということで自分が辞表を出しただろうという。(それだけ評価した部下を守るということなのだろう。)

こういうのを真のリーダーシップというのではないだろうか?口先ではなんとでもいえるが、北尾氏の場合にはそれを本当に実践し、その通り部下を指導・信頼してきたのだと思う。野村証券を辞め、ソフトバンクに転職するときに部下が数十人ついてきたことがそれを証明しているように思う。それも孫CEOに共感したんではなく、北尾氏の下で働きたいということを言ってくれたとのことであった。それは厳しいが部下の成長を心から望んでいることを部下に伝わった証拠ではないだろうか?(北尾氏を褒めすぎのようであるが、「M&Aのスペシャリスト」というお金に価値観を見出している人物かなという印象があったのでそのギャップに私は非常に驚いた。)

北尾氏はリーダーシップには「情(なさけ)」が必要(本人は弱点だと言っていたが)だと語る。今の無能な権力者にはこの「人情」がなさすぎる。

私の勤める会社では250人程度の小さい規模にもかかわらず無能な権力者がお山の大将気分でその「権力を謳歌」している。無神経な発言や悪法を作り、被害を受ける人間の感情や心の傷、今までの努力、そういうものは理解しようとしないし、そんなものにまったく興味はない。ひたすら変わることが善であると叫び続け(どこかの国の総理大臣と同じか?)、耳に気持ちいい「茶坊主」や「君側の奸」の現実感の乏しい意見だけを聞き、「無能なイエスマン」だけを評価する。会社の中に数少ないながらも存在する「良識派」の人間は「恐怖政治の暗黒社会」と今の会社を評している。私も未だにこういう会社が存在することが七不思議だと思っている。(え、何故辞めないのかって?それは私が会社へ長年の奉仕をしたにも関わらず裏切られ、体調を壊しているためである。人間は仕事だけに生きるにあらず。健康だけは回復しないと家族を守れないし。)

真のリーダーシップ、それはきっと「人間の複雑さを理解した優しさと愛情のある厳しさ。」だと思うのは私だけだろうか?

前田利家公は織田信長の茶坊主を斬り捨てて一時浪人の身となったが後に許されどんどん活躍した。それだけ有能な人物は重用するし、過去のことはまったく気にしない織田信長。彼の能力評価におべんちゃらは関係ない。こういう人間・会社・社会に私は憧れるのだが、現実には存在するのだろうか?(うちの会社はそういう会社だと誇れる方、あなたは幸せ者です。)

2006年5月12日 (金)

権力者の考え方

今日は権力者の考え方について話してみたいと思う。歴史の本を読むと現代にも通用することがよくわかるが、権力者にはある共通した考え方があると思う。

それは人間を「敵か味方か」という唯一の価値判断で評価してしまうことである。権力者は「肩書き」を「自分そのもの」と勘違いし、さらに人格と仕事を混同し、一方的な物事の見方しかできない。仕事は出来ないが上司にごますりをして出世していく人間があまりにも世の中に多いことがそのことを証明している。それは仕事の能力ではなく媚を売ることで、権力者に「よしよし、かわいいやつじゃのう。」と仕事上有能かどうかとは別の観点から評価されてしまっているのである。

私は「人間というもの」は人格や性格、責任感、家庭、仕事、その他様々な要素が組み合わさってできているものではないかと思っている。すなわち、一人の人間を評価するには様々な角度からの情報で判断すべきであり、また一つがダメだからといって、全てを否定してはいけないということである。

最初のブログで「権力」の位置に関する定義をしたが権力というものは「天(神様や仏様)」に次ぐ力を持っている。権力を持っている人間は、必要以上にその重大さを認識し、権力を持たない人間よりも自制心と謙虚さが求められるのではないだろうか?

以前勤めていた銀行で、某大企業の部長さんが保証人となり銀行に融資を申し込んだ時に、名前もろくに聞かれず簡単にOKになったということがあった。実はその数日前に肩書きを隠して自分の名前だけの信用で別の銀行に融資を申し込んだらあっさり断わられたことがあったらしい。要するに社会的な権力や信用というのは「肩書き」であって「自己・自分」ではないということを証明したことになる。それを理解しないと「肩書きという権力」がなくなった時に、「自己」が何も残らなくなってしまいますよ。

特にこれから団塊の世代で定年になる「濡れ落ち葉族(古い?)」のおっさん達、定年後は自宅で粗大ゴミとなってしまいますよ。過去の栄光ではなく自己を磨きましょう。そうなった時には「熟年離婚」にご注意を(笑)。

2006年5月11日 (木)

ウイスキーの法律(日本vsスコットランド)

私はアルコール類全般に興味がある。弱いので酒の歴史がすきなのだが、ウイスキーの定義に関するスコットランドと日本の法律の違いに愕然とした。今回はいかに日本の法律表現が難解なものであるかを記述したいと思う。

本場スコットランドではスコッチウイスキーを法律で以下のように定義している。

「麦芽の酵素によってできた液体をスコットランド内で蒸留し、木製の樽で最低3年間保税倉庫にねかせて熟成させたもの。」

なんとわかりやすい法律だろう。これを読んでわからない方いらっしゃいますか?

それに対して日本は「酒税法第三条第一項第九号」で同じウイスキーを以下のように定義している。(難解であることを示すためにわざと全部を転載します。)

 「ウイスキー類」とは、次に掲げる酒類をいう。ただし、イ、ロ又はニに掲げるものについては、第五号ロからニまでに掲げるものに該当しないものに限る。
 発芽させた穀類及び水を原料として糖化させて、発酵させたアルコール含有物を蒸留したもの(当該アルコール含有物の蒸留の際の留出時のアルコール分が九十五度未満のものに限る。)
 発芽させた穀類及び水によつて穀類を糖化させて、発酵させたアルコール含有物を蒸留したもの(当該アルコール含有物の蒸留の際の留出時のアルコール分が九十五度未満のものに限る。)
 イ又はロに掲げる酒類にアルコール、スピリッツ、香味料、色素又は水を加えたもの。ただし、イ又はロに掲げる酒類のアルコール分の総量がアルコール、スピリッツ又は香味料を加えた後の酒類のアルコール分の総量の百分の十未満のものを除く。
 果実若しくは果実及び水を原料として発酵させたアルコール含有物を蒸留したもの又は果実酒(果実酒かすを含む。)を蒸留したもの(当該アルコール含有物又は果実酒の蒸留の際の留出時のアルコール分が九十五度未満のものに限る。)
 ニに掲げる酒類にアルコール、スピリッツ、香味料、色素又は水を加えたもの。ただし、ニに掲げる酒類のアルコール分の総量がアルコール、スピリッツ又は香味料を加えた後の酒類のアルコール分の総量の百分の十未満のものを除く。
スコットランドと反対にこれ読んですぐに理解できる方いらっしゃいますか?もしいらっしゃったらあなたは天才です(笑)。内閣法制局(法律の文章を精査する部署)に転職することをお勧めします(笑)。私には作ったものに色々混ぜてごまかしていいと法律が認めているとしか読めません。
日本の法律は内閣法制局に勤務している役人がわざと分かりにくくしているとしか思えない。それともやましさをごまかす必要があるからなのかと勘ぐってしまう。
こんなにご丁寧に難解に作っておきながら、某保釈人に「抜け道があるから悪い人にだまされちゃいますよ。」って笑いながら外国人記者クラブで得意げに話されてしまう日本の法律ってどうなのよ??
(また最後に脱線)
でも彼は「粉飾決算」で株価を吊り上げ、投資家に多額の損害を与えながら保釈後も家賃が高額な六本木ヒルズに住み、3億円の保釈金も簡単に出せるのね。。。
去年のこの会社の株式総会直後の忘年会の様子をTVで見た方、いらっしゃいます?
私には新興宗教団体のイベントにしか見えなかった。
ちなみに株主総会では「時価総額を上げ、株価上昇によるキャピタルゲインで株主に還元する。」と言っておきながら「株主配当」を出さないためにウソ泣きしたらしい。でもマスコミや株主はH氏が泣いたといってそれに感動し、ニュースにまでして放送していた。こういうところも宗教団体っぽいな。
それを持ち上げたり叩き落したりするマスコミもなんだかなあ?

2006年5月10日 (水)

道路交通法その2(自転車)

引き続き「道路交通法」である。私の住んでいる地区は自転車が非常に多い。自転車は道路交通法上の「軽車両」であるから、許可された場所以外では車道を走らないと違反である。ちなみに私の配偶者は外見からは判断できないのだが、病気によって生涯ゆっくりとしか歩けない。そんな配偶者に対して歩道を走る暴走自転車が何度となくぶつかってきたり、挙げ句の果てには「邪魔だ、どけ。」と言われたりしている。その度に彼女は怒り、心がねじれ、人間がますます嫌いになっていっている。しつこいが標識で許可されていない限り、「歩道の自転車通行」は違法だっつうの。

警察庁のHPに掲載されている平成17年度の交通取締り件数資料(ご興味のある方は下記の37ページを参照いただきたい。)のところには自転車を取り締まったという記載がない。(あるのかもしれないが「その他」か?風の便りで「全国で年間2件」と聞いたことがあるが、詳細不明。知っている方、教えてください。)

http://www.npa.go.jp/toukei/koutuu28/20050127.pdf

先日、こんなことがあった。夜の10時過ぎだったか、ふらふらっと道路を何度も横切りながら走る一台の自転車。うーむ、どうみても酔っ払い。この時点で「道路交通法違反(酒気帯びや飲酒)」。警察の方、自転車の飲酒運転は法律違反ですよ、車だけでなくて自転車もちゃんと捕まえてくださいな。自転車のマナーの方が悪いですよー。

閑話休題。危ないので後ろから車がきてますよーという意味で短く「プッ」とクラクションを鳴らしたら、なんと車道のど真ん中で停止し、私に向かって何かを怒鳴っている。よく聞いてみると「うるせえバカヤロー。」と言っている様子。他にもいろいろ言っていたようだが、酔っているので意味がさっぱり分からない。そのままずっと道路のど真ん中で止まっており、むちゃくちゃ言っているのでこちらもとうとう熱くなり「邪魔だじじい(あ、相手は老人でした)、そんな運転していると轢くぞ!お前が死ねば年金財政が浮く。」とこちらも訳がわからないことを口走っていた。(轢いたら私が「刑事訴訟法」で逮捕されてしまうので当然やらなかったが・・・)

別に厚生労働省の味方ではないが、何で私は「年金財政が浮く。」と口走ったのだろう?よく考えてみると保険料をきちんと納めていれば「遺族年金」が払われるだけなのだが、年金保険料の値上げと給付額の削減が根底にあったようだ。我々や企業が払っている年金保険料を法律の一文を拡大解釈することで無駄な施設をどんどん作り、そこの管理運営団体を作り、そして天下る。最近では不採算が続くから、作った値段の数百万分の一の値段で売るということまでしでかしている。まあ失業保険や健康保険などでも同じようなことが行われている。そして誰も責任を取らない。日本の官僚というのは税金や保険料というのを「自分達の自由に使えるお金」ぐらいにしか認識していないのだろう。こういう人たちに将来を預けているというのは本当に困ったものだ。

かなり脱線したが、各種保険料の官僚無駄遣いについてはまた別途書きたいと思う。それにしても世の中(私の言葉遣いも?)が荒んできている。これも格差社会のせいか??

2006年5月 9日 (火)

道路交通法その1(駐車禁止)

来月より改正道路交通法が施行され、民間業者が駐車禁止の取り締まりができるようになる。「みなし公務員」という扱いで逆らうと公務執行妨害になるそうである。車を持っている人ならどんな取締方法になるのかは興味のあるところだと思う。その辺は別のブログでもきっと書かれていると思うので、別のところに疑問点を呈したい。

1.何故、もともと駐車禁止だった場所に白線と集金マシンを置くだけで駐車がOKになるのか?通行に迷惑になる場所だから駐車禁止にしているのではないのか?(不思議なことに時間を超過すると超過料金ではなく「駐車禁止」の対象になる。)

2.日本の公道はほとんどが駐車禁止である。それらの場所にうっとおしいくらい多くの駐車禁止の看板等が表示されている。なら駐車禁止の看板ではなく公道は表示がなくても原則駐車禁止。「駐車OK」の場所だけ看板にしたほうが数も少なくお金もかからず効率的ではないか?

3.本来「刑事罰」であるはずの駐車違反を裁判もせずに「反則金」という名目ですぐに集金できるようにしているのは何故か?違反した時にもらう青票には「小さく」不満があればお上に訴えることができると書いてはあるが、見えんわい。それに取締り中の警察官に「裁判するか?お金と時間がかかるぞおー。」って脅かされる(?)ケースも多い。結局、裁判は面倒だなあっていうことで「自分はついてない。」と取り締まりに納得することなくサインして反則金を払う人がほとんどだろう。

駐車禁止に関するだけでも上記のような疑問があるが、これらはすべて国民から駐車料金や反則金などの名目で効率的に集金を行いたいからである。そしてパーキングメーターを作ったり管理したりする業者、看板を作り設置する業者、などに天下る。ってな仕組みが完全に出来上がっている。今回も民間取り締まり業者へ天下るんだろうなあ。

そのほか見えないようにこそこそ隠れて行う「ネズミ捕り」や「一旦停止義務違反」など、姑息なやり方をしている交通取締りは私的には一番「つっこみ」を入れたくなる国家権力である。

「つかまったら今回の取り締まりは納得いきませんので勉強のため裁判を受けます。」って全員が言ってみてはいかがだろう?裁判を受けることは我々国民の権利であるし、社会勉強にもなる。裁判員制度が導入されたら自分も裁判員になるのだ。勉強しておいて損はない。仕事を休まないといけなくなるが「世の中の仕組みを知る。」という意味ではいいことづくめだ。結果的に敗訴にはなるが、反則金が罰金に変わるだけで払う金額も同じ。裁判費用は実際にはたいしたことない(経済的な理由で免除も受けられる)。

逆に言われて困るのは面倒な書類の作成が必要な裁判所・検察・警察だし、いくら専門の「交通裁判所」があっても年間数百万件も裁ききれんわな。そうすると人が足りないとまた公務員を増やすことになるのか・・・悪循環か(笑)?

2006年5月 8日 (月)

やっぱり織田信長

昨日の夜、日本テレビで「ニッポン人が好きな100人の偉人」という番組があったが、予想通り第一位は「織田信長」であった。別に異論があるわけではないが、この手の番組だと「織田信長」が上位に入るのは間違いない(長井秀和口調)。

農業経済から商業経済への移行、当時最強と言われた武田の騎馬軍を一蹴した鉄砲を使った戦略など政治・経済・文化・社会・軍事などありとあらゆる分野に新しい価値観やアイデアをどんどん出していった。それはすごいことだと思う。

「理想の上司」、「尊敬する人」など様々なランキングでも必ず上位である。でもそれって単なる結果を見ているから「いいなあ」と思っている人もたくさんいるんじゃない?

実際に上司が信長であることを想像してみてほしい。自分の考えを絶対に曲げないし、部下にも話さない、部下の意見などはほとんど聞かず、無能の烙印を押された瞬間にクビ、絶対服従以外ありえない、そんな日々の恐怖の中で働きたいと思う人間がどれだけいることか・・・本当の彼の部下は戦々恐々としていたはずだ。だから荒木村重や明智光秀も耐え切れず、謀反や暗殺を図った。

でも私は信長が好きだ。それも「優しさ」が好きである。浮気をしてめっちゃ怒っている秀吉の妻「ねね(おね)」に対して「あのはげねずみ(秀吉)にはお前ほどの女性はもったいない。」となあんて内容の手紙を直接書いてなだめたりしている。

権力がどんなに人間を狂わせるものかは歴史が物語っているが、願わくば現代の至る所に存在している怪しげな権力者もこういう人間的な優しさを持っていただきたいものである。

2006年5月 7日 (日)

大塩平八郎

彼は江戸時代の大坂町奉行の与力(現代では官僚)だった人物である。彼は自分や家族の生活を切り詰めてまで集めた書籍を全部売り払い、そのお金を困っている人たちに配ったりした非常に立派な人物である。隠居後は「洗心洞」という私塾を開いて陽明学を教えて、世の中に学問を広めていた人物でもあった。

彼は飢えに苦しんでいた民衆に米を配るために、(自己の出世のため)幕府に媚を売る上司が民衆の苦しみを無視して江戸に送ろうとした米を「武装して」奪って民衆に配ろうとした。当時の権力に逆らったから学校では「大塩平八郎の乱」と教えているのだろう。でもこれって何で「乱」なのだろうか?私には世の中が見えていない権力者よりも民衆に目を向けてそれを助けた素晴らしい人物にしか思えない。裏切りによって事前に事が露呈したため失敗した彼だが、最後まで幕府の自浄作用を諦めていなかった。自分だけ最後までこそこそと隠れていたように書かれている本もあるが、すぐに自害しなかったのは事前に老中(今の大臣)や当時の水戸黄門に世の中を正す手紙を送っており、その返事を待っていたためだそうだ。

こういう人のことが「乱」として教科書に載せられていることを非常に悲しく感じる。

2006年5月 6日 (土)

本当の弱者の味方はどっち?

日本テレビ(別に好きなわけではないが)の土曜日の午後(月に1回)に「報道特捜プロジェクト」という番組がある。その中で「架空請求業者」にリダイヤルと質問攻めをして、どんなに罵声を浴びても業者と格闘する「イマイ(もちろん仮名)さん」という方がいる。業者の実態を暴くのが目的の番組ではあるが、最近の手の込んだ架空請求を受けた場合に備える意味で一見の価値はある。

その反面、ここ数年間「改革」と叫び続けた割にはやっていることは単なる国民負担増ばかり。様々な法律改正を駆使して医療費や社会保険料の自己負担分を上げ、量的緩和及びゼロ金利政策を続け(最近やっと日本銀行が方向転換)預金者が受け取るべき金利をかすめとらせることで銀行を立ち直らせ外国資本に売却するなど、やってきた悪政を挙げてみれば枚挙に暇がない方々もいる。結果として国民からお金を巻き上げるという意味では合法か違法かだけの違いではないかと勘違いするほどである。

果たしてどちらが本当の意味での弱者を救済しているのだろうか?「国家」と「1人の人間」という視点は違うし、またテレビの企画ではあるが、私には少なくとも庶民の虎の子のお金を掠め取ろうとする人たちを救済するための知恵を与えている「イマイ(仮名)さん」の方が真の弱者の味方だと感じる。

でも架空請求業者さんにとっては「イマイ」という名前は逆の意味でのブラックリストなんだろうな(笑)。

どうなの?アイフル?

消費者金融大手の「アイフル」が5/8から3日間の業務停止である。かわいい犬を使ったコマーシャルと言葉の暴力による違法な取立てに違和感を感じた方も多いだろう。それだけ「所得格差」が広がってやむを得ず借りる人が多い世の中はいかがなものか?それとも日本は騙される方が悪く、法律さえ守っていれば何をしてもよい国なのか。日本は法律の表記が難しいわりに「抜け道」が非常に多い。「利息制限法」と「出資法」の2つが貸金業を縛り付けているが2つの金利には上限の差がある。テレビなどでも「グレーゾーン金利」と呼び、金融庁は金利差をなくして統一する方向で動くようである。でも日本の「優秀と言われている」官僚の方々、素朴な疑問だが法律を適用する対象が違うのは承知しているが、結局統一できるんだったら何で元々違うの??

2006年5月 1日 (月)

非理法権天

この言葉は私の好きな歴史上の人物の一人である南北朝時代の武将「楠木正成」の言葉と言われている。その意味は、非(非道)は理(道理)に勝てず、理は法(法律)に勝てず、法は権(権力)に勝てず、権は天(神様、仏様など)に勝てず。これが私の好きな言葉である。会社や世の中の醜い出世欲や権力欲を見ていると「ああ、やっぱりこの言葉は現代でも当てはまる。」と毎日のように思う。これからつれづれなるままに世の中に対して感じたことや思ったことを「非理法権天」を基準に書き綴っていきたい。ただかたくるしい話ばかりではなく、私の人生や趣味の話などに脱線することもあると思うがお許しいただきたい。

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